イエアクマ


イエアクマ


「タンチョン、タンチョン、助けてちょうだい」
 ためらうようにか細くて、けれど澄んで、小鳥の声のようにまっすぐに届く声。
 舌足らずな声が、タンチョンを呼ぶ。
「鶴が死んでしまったの」
「はい、お嬢様」
 家悪魔(イエアクマ)のタンチョンは、家につく悪魔だ。
 緋色の地模様がうつくしい服を着ているお嬢様の側に行って、茶化したような黒縁の丸眼鏡ごしに、ほうほう、と言って目を細める。
「お嬢様。これは寿命でございますよ」
「分かってるの。死んでしまったのよ……」
 言って、タンチョンの足下、黒く艶めいたテーブルとイスの間に立っていたお嬢様は、すん、と鼻を鳴らした。
 ひとしきり、小さな胸で考えたあとなのだろう。
 目は濡れていたが、大事そうに掌にのせた、白い首の丹頂鶴を、ささげもって、タンチョンに渡した。
 覗き込んでいたタンチョンは、ちょこんと小さく頭をさげる。短く刈った茶の髪の右端から、耳元に垂れ下がっている、赤い石の飾りが揺れた。
「確かに、受け取りました」
「悪魔なのに、どうして生き返らせられないのかしら」
 どんな光も吸い込んでしまうような、真っ黒なおかっぱ頭のお嬢様は、まだ少し平板な鼻を、再び、すんと鳴らして呟く。「分かってるわ、悪魔とは、契約というものが必要なんだって」
「その通りです、お嬢様。そして悪魔とはいえども――上の悪魔の命令には、逆らえないのです」
 言って、タンチョンは、掌に置かれた、人形のような大きさの丹頂鶴を見下ろした。
 随分前に、文明が融合政策だとかでくずれてしまって、記録された映像や、保存されていた遺伝配列情報、書物などから、大悪魔(だいあくま)ルールーが、「保存したものの再構築と、提供」を始めた。サービスではあるが、商売でもある。「わりかし友好的なんだよ、私」と、ルールーは言う。だが、それで家に縛り付けられ「家の持ち主の世話をする」家悪魔(イエアクマ)という仕事に就かされた仲間は、電話や手紙、電気信号でしか連絡が取り合えないし、遊びに行くなら疑似空間(昔は電脳空間だとか呼ばれていた)にしか行けない。派手に電飾がほどこされた疑似空間は、悪魔のふるさとを思い出させるけれど、現実ではないのだし、ちっとも楽しいものではない。
 きらきらした、緑の背の高い木々に乱反射した光が、屋内にも水面のような模様をあたえる。隙間の多い、木を組み合わせた、模様のような壁からは、いつもそよかぜが吹き入ってくる。
 全体的に黒く影の多い室内は、外と地続きで、矛盾するようだが、ひどく明るい。
「……でも、いつも、作ってくれるじゃないの」
 お嬢様はふてくされた顔をして(そうすると、しもぶくれて、それはそれで可愛らしい)戸の際(きわ)にある仕掛け戸棚の上にある、小さなドールハウスを覗き込んだ。
 中では、人の形をした小さな人形が動き回り、今はちょうど、お茶会をしている。このドールハウスは、昔の人間のふるまいを教えてくれる、情操教育用に作られている。
 以前に絶滅した動物や植物たちは、大抵、こうした、小さなちいさな、ミニチュアでしか、見ることを許されていない。
 庭の木、窓際のあじさい、芝、さんさんとした太陽に空気、池に、鯉、それに小鳥は、元々の大きさでのびのびと過ごしている。ルールーの、「絶滅生物再生プロジェクト」とかいうルール……再生する時の、生物の大きさを取り決めた基準や、その趣味が、普通の家悪魔であるところのタンチョンには、よく分からない。
「この服、チャイナドレスって、言うんでしょう? こういうものは、いくらでも作ってくれるのね。私達に、くれるのね」
「今はない、文明です。ルールーのした契約の通り、我々はあなたがたに、過去の文明を提供していますよ」
「文明、ね」
 お嬢様は、テラスに出る。テラスに置いた、茶卓と丸い、ふさふさした毛の生えた台のような、椅子。茶卓にある、盆から、茶色の素焼きのわんをとって、安っぽい金色のやかんを持ち上げ、茶色のお茶をそそぎ入れる。まだ、手足がのびきっていないから、つたない動きで、危なっかしい。手を貸そうとしたタンチョンは、じろりと睨まれ、視線に誘導されて、斜め前の椅子に腰掛けた。
 ここは、緑の匂いがする。足下の板床が、体重移動で軽くきしんだ。
 テラスは、ひさしの下につきだした廊下のようだ。というより、部屋の外側に、囲うように廊下があって、廊下自体が外にある。軒がのびているだけだ。
 黒みを帯びた灰色の瓦屋根は、遠くから見ると、青空にはえて気持ちがいい。だが、お嬢様は、基本的にはこの敷地の中から隣の家の屋根瓦しか、見たことがない。ここに来るより以前は、見たことがあるのかもしれないが、タンチョンには分からなかった。
 タンチョンは、地面からの角度だと三十度辺りになるような位置へ、視線を向ける。垣根があって、そこから先は、よその土地だ。こちら側とは似たような、柔らかな草が生えているのに、あの板の垣根をこえると、そこからはタンチョンの手の及ばないところになる。
 本当は、お嬢様は人間だから、歩いてだっていけるのだ。けれど、タンチョンが家悪魔で、家から離れられないのを知った日以降、数週間試し続けたあとで、納得して、お嬢様はもう外へは行こうと言わない。タンチョンを困らせるために、外に行かなければ出来ないことを、頼んだりはする。

 二人きりでお茶を飲んで、タンチョンはお嬢様の、黒くて長い、伏せ気味の睫毛を見つめていた。風は、いつも通り、ぬるくて涼しく、心地よい。
   *
「ねえタンチョン」
 そう言われるたび、無理難題が出てくる気がする。もう何日も何十日もかけて、タンチョンは学んでいた。
 ねえタンチョンいくらってなあに。海ってどこ。砂浜に連れていって。
「お嬢様。私はこの家の敷地からは出られませんよ」
「じゃあ、お庭で海ごっこをしましょう」
 日は暖かいとはいえ、庭に青いビニールプールを置いて水を浴びるには、この辺りの気候は寒すぎた。
 タンチョンは、新しい服はどうかとか、新しい本は、あるいは植物を育ててみようと誘い、気をそらせる。
「そうだ。先日取り寄せたばかりの、甘いお茶がありますから。焼き菓子をお出ししましょう」
「それはいいわね」
   *
「ねえタンチョン」
「お嬢様。雀は飼えません」
   *
「ねえタンチョン」
「お嬢様。人間のご兄弟は、さすがに私には作れません」
   *
「ねえタンチョン。この書類なあに?」
「先ほど届きました。住居更新の通知です。私が見ておきましょう」
「ねえタンチョン、」
「はいお嬢様」
「ねえ」
「はい」
「ずっと、一緒ね」
「はい」
 それはもう、当然のように。ここにいる限り、ずっと一緒。
   *
 あるとき、お嬢様が家出をした。
 その朝、お嬢様はえらく不機嫌で、なんでも、本物のミルクを飲みたいと言ってだだをこねていた。いくら悪魔だとはいえ、生物を作るのには時間がかかる。しかも、絶滅した動植物だと、分厚くて何巻もあるような本を調べなければならない。そこに載っていれば、作るときはミニチュアのサイズに限られてしまう。
 今、都市の外にいる野生の牛は、放射性元素をたっぷり含み、長ったらしい名前の物質を濃縮した、ミルクを出す。絶滅した酪農牛は、ミニチュアでしか作れない。
 とうてい、主の喉を潤せる量のミルクは望めまい。
 そもそも、タンチョンは家悪魔だったから、上司に、毎年、主にどのくらいの何を与えたのかを報告しなければならない。ある程度は、家の主だから、願いをかなえることは契約のうちに含まれている。けれど際限なく与えていたら、さすがに、立場が微妙になる。悪魔の場合は、生かしてもらえるかどうかさえ、簡単に微妙になる。
「いったい、どうしてミルクなんて飲みたがるんです?」
 まずそこのところを聞いて、代替が出来ないか考えてみることにした。お嬢様は目を泳がせ、
「そ、そうよ、あの、何か急に、こんなニセモノは飲みたくないっていうか……本当のものを、知りたくなったの」
 そうよ、とお嬢様は、自分の発言に力を得たように、何度か力強く頷く。どうやら、単にその場での思いつきのようだった。いつもの事だ。だだをこねるのを楽しんでいる、ということだろう。
「一頭だけ、お見せします」
 それで気がおさまるかどうかは知らないが、ミルクを飲みたいと言えば普段は、粉で出来た合成の白い湯ばかり飲む娘に、少しだけ胸が痛んだから、タンチョンは言って、立ち上がる。
 隣の部屋の真ん中にある、小さな羊の放牧場(それは大体、テーブル一つ分ほどしかなかった)に行く。掌に五頭載るくらいの大きさの、白い羊が三頭いた。ベエベエメエメエとしわがれた声で、叫んでいる。青々とした茂った小さな草はらに、タンチョンは息を整え、細く吐き出し、決められたとおりのウタを呟く。
 牛を作ったあと、お嬢様を捜すと、彼女の姿はどこにもなかった。
「お嬢様?」
 声を、少し大きくする。声は室内を通り、テラスから、明るい外へとのびて、散っていく。
「お嬢様!」
 返事がない。気配もない。鬼ごっこや隠れん坊をしても、家につく家悪魔であるタンチョンには、お嬢様の居所など手に取るように分かる。ここに来たばかりの頃、お嬢様が物陰で、両親を恋しがって泣いていたのも知っていた。そのたびにタンチョンが、泣きじゃくるお嬢様を抱きしめていた。そうするとお嬢様は一瞬だけ泣きやみ、しばらくしてから、もっと大きな嗚咽をあげる。さみしいのか、両親を思い出すのか、今のぬくもりに安堵したのか、しがない家悪魔には、分からなかった。
 さておき、不在のお嬢様を捜し、タンチョンは明るい庭へ飛び出した。鮮やかな染め物のような、緑色の芝生を踏みつけ、春の草花の匂う庭を走る。
「お嬢様!!」
 我ながら、悲愴な声だ。何かがあったらどうしよう。焦るばかりで、足がもつれる。
「タンチョンー!」
 半泣きで、隣の家の敷地から、お嬢様が顔を出した。
「助けてー!!」
 お嬢様の足下には、犬が来ている。子犬とはいえ、敵意があるのか、牙をむいて吠えていた。
「お嬢様!」
 家と家の境に立ち、爪先立って、タンチョンは叫ぶ。
「私はそちらにいけない!! 早くこっちへ!」
「うわああぁああん」

 まだ幼いお嬢様は、こうして、「無人になっている隣家に忍び込んで、遊ぶ」という作戦に失敗した。
 あちこちぶつけて、額も膝もすりむき、犬に尻を噛まれていた(子犬はどうやら、前に住んでいた隣人の、連れていた犬が、取り残され、生んだ子犬、のようだ。隣の家悪魔が、面白半分に飼って、自分は次の客が来るまで、長い昼寝を決め込んでいる)。
   *
 こういうハプニングはしょっちゅうで、タンチョンは、決して飽きることがなかった。倦む暇もなく、今日はどんな朝食にしようか、と、古いレシピをめくり、心を躍らせていた。
 幼い君。彼女がいつか大人になるとは知っていたけれど、その前に起こるその出来事を、タンチョンはすっかり忘れていた。
 彼女がこの家を出るのは、まだ彼女が大人になる前の事だった。


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