サタンの空隙くうげき

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end(400字詰250〜300程度)

サタンの空隙

 真冬のオリオンは、まるで天使の羽のように見える。
 幼い頃に家族でキャンプ場に行ったとき、真冬にこんな家族ごっこをして馬鹿馬鹿しいと思ったけれど、星空の美しさだけは胸を打った。
 覚えている。
 信長はマフラーに顎を埋めながら空を見上げた。
 ちらちらと降り出した雪が、明るい空を斑に彩る。呼気が震えて、白く染まる。
 信長は、塾の入っているビルから一歩踏みだし、ダッフルコートのポケットに手を突っ込んだまま歩き出した。
 異質な一人だった自分も、少し人の波に遅れて進めたら、全く違和感のない大海の一員みたいになる。
 十一時、人混みはまばらになりつつあるが、まだ多い。何も考えず惰性で駅まで歩いていく。
 ダッフルコートのポケットから手を出し、信長は肩にある鞄を一段と体に引き寄せた。半ば無意識に、すれ違うときにぶつからないように体を操る。
(海の小舟みたいだな)
 最近のびぎみの前髪が目元にかかってうるさい。今は焦げ茶に見えるが、真昼は風に乱されると黄土色にもすけてみえる、細めだがしたたかな髪質。
 暗いショーウィンドウにうつり込んだ自分の姿を見て、
「家康、元気にしてるのかな……」
 ぼそりと、双子の兄弟の名を呟いてみる。
 駅前を抜けて、足早に住宅街へ道を曲がった。人通りが急速に少なくなる。
 静かな建物の群れは、こうして見ていると生き物のように思える。すう、すう、と息をしている。子供などにあわせて規則的な生活をするような、不思議な生き物。
 背高いマンションは坂道の行き詰まった奥に並び、今歩いている手前側には一軒家と二階建てのアパートが多い。
 足音が、アスファルトの上をひそかに進む。
 ぼんやりとしてくるが、自分の足音だけが響き、目が覚める。
 と、ぎゃわん、と犬の鳴く声が響いた。
「え」
 近い。路上を爪が噛む音もしている。それに、急に折り重なる人間の足音。
 家々の囲いの内側からも、共鳴するように犬たちが吠える。
「散歩、なわけがないか」
 緊張しながら、信長は曲がり角を慎重に見やる。声はだんだん遠ざかっていき、ひとけのない十字路を抜けてほっとする。
 が、
「うわ!」
 足下に、真っ白い塊がぶつかってきた。毛並みのきれいな、柴犬くらいの犬だった。ぶつかって混乱したらしく、仰向けに倒れた信長の腹を踏んで右往左往した。出口はどこ、とでもいうようにばたばた暴れ、しっぽをふりまくる。
 やがて犬は道路の反対側へ駆け出した。坂の下から自家用車がのぼってきて、ライトがその姿に当たる。犬は道路のど真ん中に立ちつくし、舌を出したままライトを見ている。
「ばっ、」
 バカ野郎と叫ぶのも惜しくて信長は飛び起き、犬に駆けた。
 車はそろそろ自宅につくので減速しており、徐行に近かったため、全速力で走って犬を蹴り飛ばすように脇に追いやる時間があった。
 側溝の蓋の上に転がされた犬は意味が分からないらしく信長の二の腕にかみつこうとしたが、信長は「あぁもう、」と言いながらすぐに離れて、歩き出した。
 犬は礼を言わない。当たり前だ。
 コートに牙が当たって毛羽立ったけれど、信長は普段通り、恬淡と家に帰った。
 ただいまと惰性で言う。外の街灯を受けて明るいところは灰色になっている室内。一軒家のフローリングの床は靴下越しでも冷たく感じられる。
 玄関の電気はつけないで、居間の電灯だけつける。冷蔵庫をのぞいてから手を洗って、晩御飯の支度をした。
「一品じゃ、ちょっと厳しいか」
 たまねぎと人参を細切りにして炒め、しいたけも炒めて、作り置きしてあったパスタソースを絡める。隣の鍋で茹だったパスタを放り込み、インスタントのコーンスープと刻んだキャベツをダイニングテーブルに並べる。
 テレビをつけて、どうにか人心地がついた。
 深夜にさしかかるうちに、ニュース番組も終わる。
 宿題だとかは朝五時に起きて何とかすることにして、暗記科目だけざっと見て、風呂に入って寝た。
 いつも通り。何も変わらない一日。

 窓の外、白い犬がたったかたったかと走り、誰かに声をかけられてびくりと振り返る。うなり声をあげた犬に、嫌だな、と少年が困ったらしい笑顔を向けた。
「逃げたりするからそうなるんだよ。早く帰るなりなんなりすればいい。僕は君に興味がない。父はありそうだけど――」
 びく、と犬がしっぽを揺らす。白い息がひっきりなしに空気を染める。
 少年は、のんびりと首を傾げた。
「帰れ。ここはお前みたいな化け物のいるところじゃない」
 喉で何か鳴いて、けれど犬は負けを認めたくなくて、自然に倒れた耳を必死で持ち上げる。震えているその体を、不意に真後ろから来た男がすくいあげて網に入れた。
「あはははは、キャリーバッグより網っていうの、本当だったんだなぁ!」
「猫の話だけどね」
 黒髪の青年は、いいいい、と言いながら、もがく網を抱きしめて、ドアの開いた車に放る。ぎゃん、と鳴き声がしたが、車に乗っていた者が素早く注射し静かになった。
「さっきはびっくりしたよぉ、全然見ず知らずのよその車にはねられそうになってさあ、何あれ。危うく銃殺するところだった」
 軽く言う男の、作り物のような真緑の目を嫌そうに見やり、少年が「さっさと帰った方がいいですよ」と吐き捨てる。
「言われなくてもさー」
 男は犬を押しのけるようにして後部座席に入り込み、バンを発進させた。じゃあね、ともありがとうとも、何も言わないまま去っていった。
 やれやれと首を振り、少年は空を見やる。
 雪はとうにやみ、かすれたような色の星があちこちに散らばっている。


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