Bleibe(ブライベ)|目次(最初のページ)


 ガラス板に映し出された解析データが、まるで人には理解できない言語を打ち出していく。早口で告げ、一宇はこの操作の実行を指示した。
「エルンスト、それが貴方の、」
 主人だ。
 ――内田から一度聞いていた、マザーコンピュータMの制作者の名前。それを打ち込むと、最高権限のキーコードがモバイルに差し込んでいたディスクに流れ込んだ。
「データ、抜きました!」
 叫んだ瞬間、再びマシンが大きく揺らぎ、上部から黒煙を吐き出した。
「でかした! 行くぞッ」
「はいッ」
 応え、一宇も急いでシステムを封鎖する。画面上にオレンジ色の数字がいくつか並んだ。それを確認し、冷却システムがまともに作動しない眼前の頭脳部をどうにか制御して操作権限を軍部に移すことをインプットする。直後に、外部操作できないようにキーを入れ直した。システム使用者としての権限を示すデータを入れた小さなディスクを自分の持つ軍の許可証のタグに引っかけて接着する。これで研究所のデータはすべて最上位権限のキーによって動かすことが出来るようになる。すでに駆けだしていた大佐と味方数名を追いかけて、一宇はモバイルを床の上からかっさらった。
「そっちじゃ駄目です! 内部から抜けられます!」
 いざというときのために小型回路を持っていて良かったなと、一宇はくわえているガラス板に感謝した。出来ることが限られてはいるが情報の操作と処理時間が短くて良い。これのおかげでいくらか早く処理が出来た。
「抜け道があるか!?」
「左です! 行きます!」
 徐々に稼働し始めた頭脳が、ようやく一宇の使った封鎖コードを読み込んだのか黙り始めた。航空機の墜落音に似た重音が轟き、うごめくような壁に手を触れた一宇はたたらを踏む。先程大佐が使った爆薬の第二波が来た。
「二段仕掛けにしやがってあの野郎!」
 大佐は予測外の事態に舌打ちした。
 爆風によって飛ばされてきた敵がすかさず体勢を立て直して発砲する。
「ッくそ! どこからそんなに弾が出て来るンだよッ」
 ランゼルは咄嗟に掴んだナイフを投げた。頸動脈から溢れ出る鮮烈な赤が床を濡らす。
「開きました!」
 部屋の奥、おそらく研究者らが開発段階から緊急路として確保していたであろう階段が忽然と姿を現わした。一人が先見(せんけん)として最前線を行き、一人が入口を守るようにして攻撃を始める。もう一人の軍人を先に行かせ、大佐が、――気付いた。
「死ねええ!」
 ありったけの爆薬を抱え、さらにサブマシンガンを手に男がつっこんできた。
「くそっ!」
「大佐!」
 離脱間近で起きた行動に、背を向けていたぶんだけこちらが不利になった。
「行け!」
 大佐が一宇の背を突き飛ばし壁穴に押し込む。否を唱える余裕はない、とにかく、地下研究所母体の権利、この地を手に入れる証ともいえるキーは、現在一宇の手の中にある。これを持つ限り、彼は誰よりも先に抜け出して、仲間のもとに帰り着かなければならない。
「大佐ッ、くそおお……っ」
 銃撃の合間に大佐の声が聞こえてきて、まだ彼の生存を知らせてくれる。
 一宇は密閉空間から出て、ひたすら廊下を駆けはじめた。もたついた足で、どうにか階段をのぼりつめ、曲がり角にいた伏兵の顔に肘を叩き込んで先へと進む。
「は、っ」
 息が切れる。壁に手をつきながら、一宇は鈍く点滅する電球を睨み付けた。
 まだ外には出られない。心なしか空気がほこりっぽく、喉が悲鳴を上げていた。
「く」
 靴底がリノリウムの上に鳴った。切れた息をできるだけ響かせないように心がけても、爆発しそうな心臓がどうしても意識を奪う。
 だから軍人には向かないのだと呆れたような叔父の声が耳元でしたような錯覚がして、一宇は自然、額の汗をぬぐった。
「こっちへ!」
 角のところで待っていてくれた先見の一人が、頬にこびりついた土に血を上掛けながら声を荒げた。
「早く!」
 もはや頷くことも出来ない。足が滑る、おそらく後ろには点々と誰かの血による足跡のオブジェができあがっている。
「何やってンだこの野郎!」
 突然脇からすくい上げるようにして手が伸びた。悲鳴を殺して振り返った一宇は、すぐ隣を走っている大佐が血塗れた前髪の隙間から後方を睨んでいると気がついた。追いつかれた、いつから自分の速度は落ちていた?
「走れ!!」
 光が見えない。電源盤は付近にないのにもかかわらずブレーカーの落ちる明晰な音が耳に届いた。面食らって銃声が止む。
 一宇は力強く背を押され、再び歩くようだった速度を上げていく。それとは対照的に、大佐の速度がやや落ちる。
「大佐?」
「良いから走れ!」
 荒い息づかいが近づき、先程先見を果たした者が先へ行きますと断って駆けた。
 非常灯がつく。
「行けえええええ!」
 外は、赤土に舞う蝶の群れ。
「そのまま直進して西へ曲がれ!」
 かすれた声が無理矢理に怒鳴る。
 闇に塗りつぶされた森から、一気に耳に流れ込む虫の音。恐ろしいほどの青さを誇り、舞う、蝶、華、葉、
「行け!」
 隣を走っていたはずの男が居ない。
 息苦しいほどの密度が周囲を、感覚を埋め尽くす。塗りつぶされる。
 むしろ砂が恋しかった、これほどの緑、生き物の胎内に飲み込まれたような錯覚を覚える。ついてきていたはずの足音が止んだ。それでも足は止まることを知らない。
「っあ」
 呼吸が妙にひきつれた。
 大佐の、あれは、返り血だった?
「た、いさ……!?」
 森を出る直前に足を引きずって振り返る。後ろにはただ点々と闇の中。
 闇の、
「大佐!?」
「走れっつってんのが聞こえねえのか!」
 高い銃声。
 沈黙、鼓動が周囲の音ととけあう。
 砕ける、
 意思が、
「……大佐!」
 一宇は思わず駆け戻った。
 距離にしてほんの数メートル先に。
 浮田=ランゼルが居た。
「バカ、早くしろッ」
 声が、中途で咳に飲まれた。
 星々が明るさに飲まれゆく空、始まる浸食、
 克明になるその姿。
「大佐、どこを撃たれました!?」
 右足の怪我には先程から気付いていた。一宇が先に行かされたとき、確実に一発受けている。まるでベルセルクだ、傷を負ってなお猛る狂戦士。
「行けっつってんだろ」
「他の人は、」
「知るか」
 吐き捨てる――というよりは既にそれ以外に喋る勢いがつく方法が見つからないらしい。一宇は唇を引き結び、ランゼルの肩の下に腕を入れた。
「……何やって」
「運びます」
「はァ!?」
 意識のない者よりは、運びやすい。一宇は出来るだけ前を向き、先に見える砂漠へ踏み出す。
「何言ってんだか……」
 弱い声が頬をかすめる。足下で、あがってすぐに降り始めた雨のように水を叩く音が聞こえる。雨上がりの道をタイヤが行くような、水濡れた音。
 
 どこまでも広がる黄褐色の大地。そこを埋め尽くそうと侵食する森、その上には天の濃紺を射抜く星々。
(ここはどこだ)
 吐く息が白い。そんなことで、今の季節が冬であることを思い出す。
 足下に、もう慣れた砂の感触。ときどき引きずり込む自己意思があるようにして砂が欠けた。目の前に続く砂は砂漠らしくなく硬い大地を見せている。しかしそこから唐突に風で崩れる稜線が出現し、うまくしないと蟻地獄を見分けられなかった蟻のように足場を失うことになる。
「てめえが帰らないと意味がないんだよ」
 しばらくの間無言だった男が、一宇の肩越しに呟きをもらした。
 それから数メートルも行かないうちに、一宇が重みに負けて砂に転んだ。
「いやです」
 言いながら一宇はかすかに顔をしかめる。大地に突いた膝が鈍く痛んだ。
(置いて、行こうか)
 何度そう思っただろう。それでも擦り切れた心に鞭打って、一宇は首を振り、なおも大佐に指をかけた。
「一宇、行け」
 ランゼルは立ち上がることなくただ指示した。今にも降りそうな星の下で、大佐としての言葉を発した。
「これは命令だ。行け一宇。帰るんだ」
 聞き分けのない飼い犬に言うように、厳しさを込めて彼は吐く。しかし中途で粘ついた咳に遮られた。
 血が止まらない。今はまだ胸元の傷は右手で押さえつけているため、辛うじて出血の勢いがおさえられている。それでもこれまで流れた血液量は素人目にも甚だしい。砂は血で塊になり、森へと足跡のように続いていた。
(まだ、これだけしか進んでない)
 一宇はその事実に愕然とした。大佐に近づいたときに突いた手が、赤く染まった砂が既に乾き始めているのを捉える。砂漠では砂に吸い込まれていくために分かりにくいが、本来なら血だまりができていることだろう――これはもう、長くはない。
(違う)
 一宇は否定し、奥歯を噛みしめて相手を助け起こそうとする。
「……一宇」
 着慣れたジャケット越しにもそうと分かる銃創をおさえ、大佐は荒い息を吐き出した。
「行けよ、あいつらが待ってんだよ」
 無言で首を振り、一宇は自分一人ではもう引き起こせないでいる相手の側に跪いた。
「そんな、こと……っ、言わないで、下さい」
 そんな悲しい言葉を聞くために、貴方を助けたいわけじゃない。この状況のすべてを見かね、ランゼルは視線を泳がせた。時間がないしな、と呟き、うわごとのように何か言う。それらはくぐもり、判然としなかったが、すぐに何を考えていたのかは行動で示された。
 ドッグタグを引きちぎるようにして、ランゼルが一宇にさし渡した。
「……これは、必ず、マリアンか、娘、に渡してく、れ……、お前には、クロスやったからな……」
 形見分けには充分すぎるだろう、と片頬で笑い、彼は急にごぼごぼとした苦しげな咳をした。
「あぁ、見てみろよ、お前なら分かるだろ」
 ひとしきり咳き込んだためか、言葉がしばらく明晰に出た。傷口から手を離し、ランゼルは手のひらを中空に掲げる。
「これはもう、助かりようが」
「大佐!」
 黙らせ、一宇はドッグタグを持ち主の方へ押し戻した。刻まれた文字に血がこびりつき、ランゼルの所属などを示す記号が白みゆく空のもとに浮かび上がる。
「何だ、預かってくれないのか」
「違います。ご自分で渡してください」
「……一宇」
 ランゼルが力の抜けきった声になり、一宇は目を固く閉じた。
「だめです、俺はそんなことはできないです」
 一宇自身、自分の言葉が無意味であると分かっていた。これは頑是無い反応でしかないのだと。
 だからこそすべて投げやって逃げてしまいたくなる。逃げてどうなるということもないのに、それは甘美に、思考にまとわりついた。
「一宇、頼むよ」
 途方に暮れた声が言う。もはや命令もできないのかと、一宇は泣きたい思いをこらえた。
「全員、無事に帰るんです。少佐だって九条先輩だって内田さんだってラファエルさんだって……みんな、帰りを待ってるんです」
 砂が徐々に、寝転がる者を押し隠すようにして流れ始める。ランゼルは不意に、力の限り、一宇にタグを押しつけた。
「行けよ、……何やってんだよ」
 吐く息が弱々しい。血塗れた頬に手を触れて、一宇は幼い子どもがするように首を左右に振って拒否した。
「一宇」
「い、嫌です……」
「俺だって死にたかない」
 息が浅い。焦点が合わなくなる目が、最後の願いを突きつける。
「頼む、これ以上……俺に泣き言を言わせないでくれ」
 真摯な眼差しでそう言われ、一宇は、全力でその場から逃げ出した。涙で視界が滲んでいたが、転ばないで、全力で走った。
 鼻の奥も肺の奥もひどく痛んだ。刺すような刺激で脳がとめられたような気がする。それでも走る機械のように、それだけを目的として、一宇はひたすら足を動かし続けていた。
 前線基地へ、戻るために。
 
「約束、守れなかったな」
 呟き、彼は天を仰ぐ。
 せめて楽な体勢を取って血を気管に入れないようにすれば良いが、それより、空を見たかった。佐倉少佐とは違い、ランゼルには空へのあれほどの憧憬はない。ただ今は、この空の先に居る、誰かのことを思いたかった。
 それだけだ。
「何だ、意外と静かだな」


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