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「よー」
医務室行きに激しく抵抗した一宇は、医療班のチェックを終えて長い廊下の椅子に腰掛けていた。もうすぐ自室に戻れる、そう思うと、泥のような疲弊が体を包んだ。戦場とは違って、それは生ぬるく、どろりとしていた。
そんな中、気の抜けた声を出して、一つの影が近づいてくる。
一宇は面倒だと思いながら、姿勢を正した。
「大佐、どうしたんですが」
「なぁにが、『どうしたんですか』だ」
ごん、と拳を一宇の頭に置き、大佐はその手を広げてわしわしと乱暴になでた。
「左目、どうだって?」
「あー……まだ見えます」
曖昧に言ったが、大佐はごまかされない。じっ、と、まるで静止して見える月のような静けさで注意を向けている。一宇は根負けし、息を吐いた。
「視力を失うのも時間の問題、だそうです。現に視界のあちこちが白く欠ける」
「そうか」
黙って、大佐は一宇の左に腰掛けた。
天井の白色灯がちらちらと瞬く。蛾がいくらかばたつかせた羽で壁をならした。
「――一宇、お前知ってるか」
どこか歯切れの悪い口振りだった。一宇はのろのろと顔を上げた。――見なければ良かったと後悔した。大佐は疲れた横顔で、壁を見つめている。うろんげに彼は言う。
「神の左目」
「――マザーコンピュータMが持ってる端末のことですか?」
先が読めた。一宇は自分が持つ知識を思い、そしてあのまま軍人などにならずに料理だけしていればよかった日々を思った。
「もし望むなら、『神の左目』の許可を下ろさせる」
大佐の声はすこし遠く聞こえた。
ここに居ながらにして、どこか遠くに。
神さまがもしもいるのなら、なぜこれを自分に聞かせてしまったのだろう、止めてくれれば良かったのに、そう思う。なぜなら一宇は、得られるものなら、手を伸ばさずにはいられないだろうと気づいていたから。
聞いてしまえば、それ以前の状態にはとどまっていられない。
「まぁ――アレを使っても視力が戻る確率は五分五分だし、私生活も何もあったもんじゃないがな」
大佐は立ち上がりざまに呟いて、邪魔して悪かった、と一宇の肩を叩いた。
「学校には俺から言っておいた。多分お前の家にも連絡が行っている。一応、シンクタンク生とはいえ軍人扱いの期間中に起きた事故――というか、まァ負傷だ、遺族年金とまではいかないが傷痍軍人としての手当ぐらいは出る」
「俺が弱かっただけです」
左目を押さえ、一宇は歩き出した大佐の背に呟く。
「俺なんかよりもずっと、大尉のほうが強い」
「大尉になれるぐらいだからな、強いよ、あの女は」
靴音が止んだ。
この一角は研究者然とした軍人たちが行き来するほか、ほとんど人の通りがない。さびれた空気がどうしようもなく『この先の死を』気づかせる。この一番奥の扉は、あとは消えるしかない命の格納場所だ。多くが死に、一部が生き延びていく。うめき声が聞こえ、再び止んだ。誇り高い上位の軍人の一人が、戦闘で失った下半身の幻痛に苦しんでいるのだと医療班に聞いている。
「――あの女はな、軍人を辞める気はないんだと。負けるのがイヤなんだそうだ」
問わず語りで、大佐が背を向けたまま口を開いた。
「本人は言わんだろうし、他の人間の口にもあまり上らん。――俺がぶちのめすしな。だから本当は、あいつをけがすようでイヤなんだが、お前が勘違いしたままなのも腹立たしい、だから言っておく」
何を言うのか。一宇は大佐が憂乃の何を語りたがっているのか、その意図もつかめずただ聞いている。
「あの女は弱い。昔、といっても四、五年程は前になるか。あいつが第七部隊の少尉にまで昇進したころだ。今も昔もあの部隊は壊滅が多くてな、生き残った人間を上に据えていかないと機能しなくなって大変なんだ。それを別にしてもあいつは生き残ってる時点でえらいがな。まぁ、見ての通りあれは有能に立ち回るが協調性も少ないし、体も小さくてな、ようやっとシューティングスターとしての能力に目覚めはじめたぐらいだった。若かったし、かなり見くびってたバカどももいたんだ。ある日あれは輪姦にあった」
「――それって」
一宇は大佐の背中を見やる。大佐は振り返らない。ただ、昔話のように続ける。
「発見されたとき、あれは死んでいるのかと思われた。傷だらけだったし、何より舌を噛もうとしても出来なかったらしくてな、血の海の中で、ただ泣いていた」
ストレッチャーが一台、向かって来、三メートルほど奥の扉の中に消えた。すれ違うのもやっとの廊下で、壁にはりついてよけた大佐は、背を預けたま両手をポケットの中につっこんだ。
「あれは誇り高い女だ。精神的にもひどく打ちのめされていた。だが熱の下がった翌々日には、何食わぬ顔で演習に出た。どんな中傷にも口を閉ざし、ひたすら任務をこなそうとしていた。自分の弱さを憎んだんだ――奴らは減給と降格処分を受けてはいたし、あの頃の裁判は甘くてな、軍人を『無駄に』減らすわけにもいかんと言って、上がほとんど野放しにしやがった。
あれは本当に、飛ぶことや戦うことに没頭し、周りが安心していた。だがな、俺は強くなりたいという口で、泣き言がいえないことを知っていたよ。あれは、周りの哀れみと、「早く元気になれ」という圧力を受けて、傷口を見ないように、崩れないように、必死で押さえていた。――そして」
一息に片づけてしまおうとする、その横顔は鋭利な刃物にも、もろい土細工にも似ていた。大佐は少し息をとめ、ため息のように吐き出した。
「あいつらが食堂であれと同じ席に着いたとき、俺は戸口で『ちょうど』ライフルを抱えて帰還したばかりだった」
一宇が目をすがめていたのは、左目が見えにくかったばかりではない。
「綺麗事じゃないんだ。あいつらはのうのうと生きて、踏みにじった女のことをののしったんだ――あのころ俺は大佐になったばかりだったかな、謹慎どころか除名をくらうだろうに、銃口を正直にあいつらに向けた。全員の急所は外した。何発も、あえて痛覚刺激の多い場所ばかり選んで撃った。失血死か生き埋めが良いと思った。――水責めは一部屋いるしな。あぁ、殴るのでも良かったか、火でも、他にいくらでもあったかな。ともかく一番てっとりばやかったんで、弾がつきるのが早すぎると思うくらい適当に撃った。あれは青ざめたままだったが、そのあと初めて泣いてくれたよ。貴様が殺さなくても良かった、自分が将来上官になって見下してやったものを、と言って泣いた」
一宇は返す言葉を失っていたが、おそらく、答えは必要とはされていない。
「お前が軍人を続けようが辞めようが、それはお前が決めることだ。だが、あれに関して勘違いしたまま去られるのも癪にさわる」
俺も全然、強くはない。
そう言って、大佐は立ち去った。
数日後、一宇は第二十五部隊隊員によって生還を祝われた。
大佐曰く、単に一宇にかこつけて騒ぎたかっただけらしい。
「何か言えー! 主賓、しゅ、ひ、ん!」
ついさっきまで片隅で九条のより分けたサラダの残りを始末させられていた一宇は、熱に浮かされたようなコールと共に壇上にあげられた。
何を言おうかと考え、ふと思い出す。
「祖母が言ってたんですけど、昔、六日間働いた神が、七日目に休んだんだそうです。俺の場合、これまでの人生が一週間だとして、六日休んで、やっと今、仕事を始めるんだなぁ、と」
思いました、と言う前に、隊員の一人が号泣しながら寄りかかってきた。――泣き上戸らしい。
そのままうやむやのうちに再び部屋の片隅へと追いやられ、一宇は九条に微笑まれ、皿を渡された。
「食え」
当然ながら、皿の上には野菜しかない。
「……いい加減、レタスとトマトくらい食べてくださいよぉ」
「冗談言うな、それは俺が世界で二番目にキライなものの名前だ」
「一番目はなんですか」
「……いわん。言ったら食わす気だろ」
当たり前である。
料理人の腕をかけて、一宇は創作料理に挑むことだろう。
九条の食事を注意深く観察し、一宇はようやく答えを見つけた。
「サニーレタス!」
「だッ……! 黙れよバカ!」
飛行機から突き落とすぞ、と今ひとつ役に立たない脅しを吐き、九条が手に持っていたドリンクを一宇にかけようとした。寸前で、戸口にいた大佐が手招きし、双方の動きが停止する。
「……どっちだ?」
「先輩じゃないですか?」
「いや、お前だ」
断定し、九条は一宇を追い払う。
「安心しろ〜お前の分のメシは確保して置いといてやる」
微笑んでいるが、つまりそれは一宇に野菜を片づけさせ続けるという宣言である。
ざけんなちくしょう、あはははは、と思いながら、一宇はひきつった笑みを返した。
一宇だって、たまには他のものも食べたい。雑食なのだし。
そんなことを考えながらのろのろと大佐に近づくと、
「大尉が用事だそうだ」
一宇に、大尉、の知り合いがいるとすれば、それは浮田憂乃でしかない。すれ違いざまに睨まれる。
「――なにかしたら」
「分かってますって! ていうか何もしませんから」
親ばかなんだから、と内心で呟き、いや、姪と叔父なんだから叔父バカ? と訂正する。
「うちの叔父さんとは大違いだな〜あの人、飛ぶことしか頭にないし」
一宇の叔父も叔父バカだが、甥はあまり気づいていない。
扉が閉められると、熱気が嘘のように遠ざかり、一宇は身震いした。
「先日は、いろいろと助かった、礼を言う」
相変わらずの仏頂面で、憂乃は一宇を見上げた。どこか虐待を受けた小動物のように見えるのは、せんだって大佐に聞いた話のせいだろうか。
一宇は気を取り直して返答した。
「いえ、俺はほとんどお役に立てませんでした。むしろ大尉のほうが強かったし」
後半は嫌みに聞こえただろうか。しかし本音ではある。
秀でた人間を羨ましいと思うし、自分にはなにもないと切なくもなるのだ。
対して、憂乃もまた正直だった。
「まぁな、森の中では邪魔だと思った」
あっさり返され、一宇は自覚はしていたものの落ち込んだ。思うのと人に言われるのとでは大違いである。
ちょっとめそめそしていると、
「でも」
と、大尉が目をそらした。
「私はシューティングスターの能力と、地上戦の力しかない。お前がいなければプラントから出られなかっただろう……ありがとう」
「え」
現金なものだ。褒められて、一宇は頬に色を取り戻した。
「えっ? 俺、役に立ってましたか?」
うきうきと聞くと、
「う、うるさいなっ……一度しかいわん」
一宇はなぜか横腹を平手ではたかれてよろけた。
うふふ、照れ屋さんなところも大佐そっくり。
心のうちで言論の自由を行使しておく。
口をへの字に曲げ、憂乃は廊下の向こうを向いた。
廊下は外気の名残か、冷えていて、気持ちまで冷静にさせようとする。
それなのに、なんだか、ひどく落ち着かない。
室内からは笑い声が響いている。
「そうだ、何か用、あったんじゃないですか?」
思い出したように言って、一宇はその唐突さにわずかに眉を寄せた。しかし相手はそのようなことに構うタイプではない。
「そうだ! お前が、その、左目をやられたと聞いて」
慌てて憂乃がこちらを向いた。黒い瞳だが、明るい部分は灰色に透ける。じっと見つめ返し、一宇は不意に微笑んだ。
「今、医療班のおかげもあって大分良いです。雨の前はちょっと痛むんですけど――よく見えます。それより大尉は怪我してませんか?」
「あ、ああ」
少々拍子抜けしたように、憂乃が頷く。背伸びをしそうな勢いが、針で突かれたようにしぼんだ。
「私は大丈夫だ。お前が閃光弾をさんざん間近で使っていて、心配だったんだ――見えてるなら、いいんだ」
しぼんだと言うより、安堵して力が抜けただけらしい。
面白いなぁ、と、一宇は他人事のように自分の感情を呟いた。もちろん、内心で。
憂乃は一宇の左目を見ていたが、ふと、
「左目……少し色が違う」
と、呟いた。
「え、そうですか?」
「うん。少し、底が青く感じる」
それは基盤だ。言いかけて、言葉を飲み込む。
「ヘンな薬、混ぜられたんですかねぇ」
笑って、かわす。
できればかわされてほしいと祈りながら、一宇は慎重に笑んで見せた。
憂乃は怪訝そうな顔をしていたが、
「お前は、笑ってごまかす男だな」
と、断定した。
「は? どこらへんが?」
一宇は思わず真顔になって問う。
「そういうところが」
「どういうところがですか」
「まぁ」
大尉はどうでもよさそうに会話を打ち切った。
「無事で何よりである。これからもスクールでよく学ぶように」
軍人になれ、とは言わなかった。
不器用な女だ、と一宇はぶしつけな笑みを浮かべた。
そして、約束されたような一言を口に乗せる。
「はい」
敬礼して見送り、部屋に戻ろうとしてやめる。
騒ぎはどうも、肌が受け付けなかった。
すると目の前でドアが開き、大佐が一宇を見、ドアの中を見、再び一宇を見て外へ出てきた。
「いちうー、じかん、あるか」
否も応もない。
上司に言われ、一宇はなにがあるのだろうと及び腰になりながら頷いた。