この地はもう、お前を愛してなどいない。
それでも私はこの地に残る。
Bleibe(ブライベ)
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   Bleibe(ブライベ)   

20−4

   *
 それは前線基地で数度出会い、関係を持った覚えのある女の名前だった。
 適当に声をかけては遊び暮らしていたランゼルだが、生憎認知問題には無縁である。遊び相手にことかかなかった所為もあって、そういう後腐れのあることを持ち出す女には手を出さなかったのが原因だろう。……出してはいたが、処置がうまかったために妊娠させたことがないだけ、ではある。
 けれどその女は、別れる別れないでもめようとするような面倒な類の女でもなければ、遊びで誰とでも寝るような女でもなかった。
 品の良い、少し化粧の濃い女。
 紅茶をいれるのが上手いと聞いたことがあって、ランゼルはコーヒーを注文したついでにそれとなく言い寄ってみただけだ。始まりは。

(それなりに、面白いと思ったンだ)
 それだけだ、とランゼルは額の汗をぬぐいもせずに内心で声高に叫ぶ。
 言い訳じみて吐き気がするが、あの女に笑顔でコーヒーを顔にぶちまけられたり、笑顔で蹴り飛ばされたりして妙にイライラしてやけになって絡んだのは事実だ。
 なまじそのころまでに関係を持ったことのある相手がほぼ全員年上でいわばパトロンじみたマダムであったりしたものだから、軍人の仲間などが言い合っていた「年上にしか興味がない」という仮説に確信を与えてしまった。
(別に俺だって、年増ばっかりが好きなわけじゃねえよ)
 年下や同年代の女の夢見がちな突拍子もない理想に振り回されるよりも便利だったということもある。それなりにいい関係を築きやすかったし、寝るのにもかなり都合が良かった。

 隠し通せるわけもないのに、彼女は破水のほんの数時間前まで喫茶店で働いていた。
 誰にも気付かれないように、たったひとりで準備して子供を産むつもりだったらしい、と、その際に居合わせたマスターが何度も何度も念をおすように言い続けた。
(俺のことはどうでもよくて、子供はほしい、それだけか?)
 今のところ出会った中にはいなかったタイプの女の出現に、ランゼルは実際、慌てていた。
 乗り合いの飛行機の乗り継ぎを間違えてしまったり、あちこちに蹴躓いたり、果ては財布をどこかに落としてきた。砂漠から商隊とどうわかれてきたのかは記憶にはない、ただ、国境を越えてから飛行機で戻るという方法で行くのが早いと言って紙切れに手順を書いてくれた護衛隊の誰かの声が耳の奥に残っていた。

 どうにか基地の近くの街にたどりついたとき、ランゼルは自分がどこに立っているのか、あまり把握できてはいなかった。とりあえず目の前の看板が、連絡された病院の名前をしていたので、迷わずに辿りつけたらしい。
 二階建ての建物は、数度の戦闘に巻き込まれたのだろう、外壁にところどころ銃痕らしき穴や欠けを見せていた。
 入口でつかまえた看護士の女性は、砂と埃まみれのランゼルの格好を見て眉をひそめたが、マリアンの関係者だと知るとぱっと表情を改めた。
「あぁあぁ良かった……! ご友人もご家族もいらっしゃらないと聞いてましてね、一人では何かと不安ですし大変ですからねご本人が。心配しておりましたよ、えぇえぇ、それは良かった旦那様のご到着だ」
「いや、俺は……」
 がしっと肩を掴まれ、背が低く細身の癖にやけに力強い彼女に引きずられる形となり、ランゼルは顔をしかめる。
「あの、ちょっと、俺は、あの」
 女はあちこちの患者に声をかけながら階段をのぼっていく。二階一番奥の部屋から五つほど手前にある大部屋を通り過ぎ、看護士はあってなきがごとしのドアをノックもなしに蹴り開けた。
「マリアンさーん面会ですよぉ良かったですねえ赤ちゃん見せびらかしちゃいましょうねえ」
「は? 見せびらかし? ていうか俺はその、」
 動揺するランゼルの前に、一つのベッドが置かれていた。
 真っ白なベッドカバーに埋もれるようにして、一人の女性が横たわっていた。
 どこか青ざめたような肌の色をしているのは、おそらく貧血のためだろう。
 黒髪がゆるく頬にかかり、それから、彼女はこちらを見て瞠目した。

「絶対安静ですから。産後の状態があまりよくなくて、これまで随分ストレスがかかってたんでしょうねぇこれからはちゃんと旦那さんが支えて一緒に生きていってくださいよねえ」
 てきぱきとそう言うと、看護士はマリアンに微笑みかけて部屋を出た。用があれば呼ぶように、というセリフは、それから数コンマ遅れてやってきた。

「……びっくり、した」
 ややあって、マリアンは、目を丸くしたままぼそりと言った。
「それはこっちのセリフだ」
 思わず憮然とした声で応えると、マリアンは慌てて首を左右に振り始める。
「違うの、」
「何が」
「あ、あの、ね。もう二度と会えないかと思っていたの。会うつもりもなかったし、これは大体、あたしが勝手に仕組んだことだから――貴方には責任のないことなの、あれはあたしの赤ちゃんなの」
 ゴメンナサイ、と呟いて、彼女はランゼルから目を逸らした。
「あ、貴方が、来てくれるとは思わなくて、それで……動揺してるの、ごめんなさい変なこと言って」
「どうしてこんな無茶を?」
 知らず尖った声になる。マリアンはいつもの余裕ぶった表情が嘘のように、気の抜けた顔で叱られたように首をすくめた。
「……貴方は……いいえ、誰だって、ただの種馬扱いされるのはプライドが許さないって、言うのよ、男は。それで、それなりに顔も頭も良かったし、絶対、あたしとは結婚もしてくれなさそうだし、私自身もはっきり物を言いすぎるから敬遠されてて他に可能性のありそうな人をえり好みしてられなくてそれで貴方と寝たときに、わざと」
「わざと……? わざと、避妊に失敗するように仕向けたわけだ、へェ?」
「だ、だから!」
 彼女はわたわたと指を組み替える。そのせわしなさがいつにないもので、ランゼルはもっと虐めたいという欲望を感じた。呼び起こされた感情を知らず、マリアンは必死な顔つきで言葉をたぐっている。目はなかなかランゼルとは合わなかった。
「こんなこと言われて気持ちがいいものじゃあないと思うわ、もちろん。けどあたしは、……」
「聞こえない」
 冷たく聞こえるようにわざと言うと、マリアンはぐっと詰まってから、突き放すように声を返した。
「家族が、ほしかったの」
 ぐっ、と潤んだ目で見上げられ、ランゼルはたじろいだ。もとから子供が生まれたこと自体にケチをつける気はなかったため、一度溜めた息を大きく吐き出す。
「……それで、俺は要らないわけ?」
「え?」
 マリアンはきょとんとする。
 顔を背け、ランゼルは頬に血が上っていくのを感じた。
 これではまるで子供のようだ。
 自分は要らないのかと言うだなんて、甘えているにもほどがある。
(あー俺格好悪いし!)
 もしここで要らないと言われたら。よく分からないが、地団駄を踏みたい気持ちにはなるだろう。
(好きだとか愛とかそういうのじゃない断じてない!)
 ない、が。
 他の誰かに渡すことだとか、どこか遠くへ行ってしまうとか、そういうことに苛立つほどには――執着心を、持っていたのだ。
 悔しいことに。
「……なってくれるの? 家族に?」
 ほうけたような問いかけに、ランゼルは床を蹴って応答した。
 これで彼は悔しいながら理解した。
 自分から離れるぶんには何ともなくても、彼女が離れていくのは許せないのだ。それはあまりに幼いけれど、彼にとっての「特別」を意味しているには違いなかった。
「いいのね? 本当に?」
 ちらりと盗み見た彼女の目に、きら、と小さな輝きがともる。
 この、悪魔のようにさえ見える彼女の表情が好きだった。
 頬に首筋に口づけたい衝動に駆られながらもランゼルは平静を装った。
「……俺は家族が多いほうだから、あんたが焦がれる理由はよく分からないけど。そうだな、してやってもいい」
「……ふふっ、なぁに? 意地を張ってるのかしら、ランゼル?」

 女はずっと、図太い者だ。けれど、それを見せかけていて、本当の心細さを押し隠して、それを見られないように突き放して逃げてしまう者もいるのだ。
 もはや頭の中がごちゃごちゃしていてどうすればいいのかと反応しかねているランゼルに、マリアンは化粧気のない顔を少しだけうつむけた。
「どうか、見てやってくれる? あたしが、貴方に黙って産もうとした命のこと」
 どこかはにかみながら言った顔は、彼が今まで見たこともない少女のような笑みを浮かべていた。
「それから、今の話が続くかどうか、考えましょう」
 貴方が義務感で結婚なんてしないために。
 そのとき、ランゼルは、何故信じてはくれないのかと自分の行いも棚に上げて激しく彼女を非難した。無論頭の中だけで。
   *
 白い部屋に招かれる。
 消毒液臭い室内で、ひっきりなしに誰かを呼び出す声と激しい猫のような鳴き声がしていた。
 それらが全て、この世に既に産まれ育った先人たちと、今しがた産まれおちたばかりの新人のもので成り立っていて、ランゼルは場違いな気がして妙にたじろぐ。

「あぁそうそう、マリアンさんの、お子さん、まだ名前が決まってないらしくって」
 にこにことそう言って、疲労の濃い顔をこちらに向けて看護士の女が白いカーテンを開いた。
「こちらが、昨日産まれたばっかりの新生児になります。できればお早く名前をつけてあげてくださいね。産まれる前からちゃんと決めておくと良いんですよ、慌てないで済むし熟考できるし、なにより話しかけながら胎児の成長を見守れますからねえ」
 そんなことをする以前にマリアンが子供を身ごもっていた事自体知らなかったので、それはランゼルには土台ムリな相談だった。
 けれど感想も反応も待つことはなく看護士はカーテンの奥、籠に並べられた赤ん坊の腕を一つ一つチェックしていく。
 まるで市場で売られる羊やトリのようだなと思っていると、ピンク色の塊をふいと看護士が指さした。
「この子ですよ、女の子。女の子ですよ」
 耳がおかしくなるほど、子供たちの泣き声が響いている。誰かの泣き声が伝染したらしい、加速度的に広まっていく。
 その中で、看護士は笑いながら子供を抱いた。
「抱っこされても構いませんけど、首が据わって無いどころか産まれたばっかりですからね、慣れてないでしょう子供なんて、だったら本当にびっくりして取り落としかけるお父様もいらっしゃいますからね、赤ちゃんもびっくりしますから気をつけて、気をつけて」

 初めて娘をこの腕に抱いた日だった。頼りなく小さな手足は思いの外力強く中空に伸ばされている。幼い娘はまだ言葉を話すことはない、つい先日生まれたばかりだから顔だって人よりも猿に近いように思われる。
 けれど。
 どうしようか、と、思った。
 ただひたすら、うろたえる、と言ったほうが正しかった。
 生え際にかすかに産毛が並んでいる。くるりとした目を見開いて、赤ん坊はこちらを向いた。
「ぅあ」
 何事か言って、赤ん坊は手足を振る。
 ランゼルは慌てて、取り落とさないように両腕の筋肉をこわばらせた。
 得体の知れない生き物は、腕の中でとりとめもなく口を動かしている。
 後ろに気配を感じ、ランゼルは不安定なふわふわとした塊の熱におろおろしながら振り返った。
 取り落とさないようにゆっくりと。
 マリアンが笑って、そっと、彼の腕の中にいる我が子の額を指でなぞった。
「まぁ……笑ってるのね」
 看護士が聞きつけて声をたてて笑う。そうですねえ、お医者さんはダメでもお父さんは分かるんですかねえ、意外と泣かないですねぇ娘さんは。

 死んでも構わない、誰かを巻き込むくらいなら。
 そう思うくらい荒んでもいた気持ちが、ざっと音をたてて引いた。あまりに多くの命たちが、この耳元で泣き叫んでいる。その中で今し方この世に生を受けたばかりの者が、穏やかにこちらを見つめていた。
 今ならば、ミハエルが一つのものを追いかけていた狂熱ぶりが分からないでもない。誠実にただ、失いたくはないと思った。
 これまで何の価値もなかった――様々な物事を。
「どうしたのランゼル?」
 マリアンが首を傾げる。
 何かを言おうとしたが言葉は落ちては来なかった。何とも名前の付けがたい思いが、色とりどりにあふれかえって口を塞いだ。
 首を振る。ただ悲しくはないのだと伝えたくて言葉を探した。
 平穏で、真っ白な穏やかなる内海を眺めたときのような、誰かの懐でゆっくりと背を守られているような、奇妙な感覚。言葉にはならない。
 だからランゼルは取り落とさないように必死で全身の神経を集中させながらも、あはは、と乾いた笑いを漏らした。
「なぁに? 天気雨みたいな顔をするのね」
 赤ん坊に触れたその指で、マリアンはランゼルの頬に流れる筋をぬぐった。軽く背をかがめてその頬に口づけし、ランゼルはしばし目をつぶる。

「そういえばランゼル。貴方、汚い手で娘に触らないでくれる?」
 半眼で言われ、ランゼルは百年の恋もさめる勢いで我に返った。
 マリアンはいつもどおり、蔑むような笑みで両手を差し出し、赤ん坊を奪い返した。
   *
 生きるには、ただひとつ、この身に宿る熱があればいい。
 動かされる意欲があれば、僕はただ、前へ進もう。
 ――それが正しくとも、そうでなくとも。

 のちに、ランゼルは正式に彼女に結婚を申し込んだ。というよりねだったのだが、店の裏庭で大量の皿を洗っていた彼女は、子供が生まれたときとはまるで違ってバカにしたような顔をしてくれた。
「すでに子供がいるんだけど」
「でも俺が言うまで結婚しないって言ったじゃないか」
 だんだんとバカらしくなってきて、ランゼルは軍への届け出用紙を地面に向かって叩きつけた。
「それでしかも、俺が全員守って帰ってこられたらとか条件つけたじゃないか!」
 青臭い誓いをかけさせられて、その末に申し込んだのだが、どうにも、格好がつかない。
 対してマリアンは冷静だ。近所の人に預かられている赤ん坊が、ときどき何かをいう声が聞こえる。それをバックに、マリアンはさらりと言い返した。
「当たり前でしょ?」
 ランゼルは先日、それこそ死ぬ思いで、数少ない部下たちを全員つれて戻った。おかげで少しやり損ねた仕事があったが、連動していた他の隊には迷惑をかけずに済んでいる。
 不機嫌なランゼルに、マリアンはゆっくりと笑みを広げた。
 喫茶店で働いているときに見せるような笑みに、ランゼルは心持ち腰がひけた。
 暴力的な姉が居たため、本能的に、年上の女には逆らえないのだとそのとき悟った。

「貴方がそう簡単に死ぬようじゃ、私と長く居られないでしょ?」
「……すでに軍部に居る時点で殆ど戻ってこられな」
 指摘した途端脳天をはたかれた。
 涙目で見たマリアンは、微笑みながらも目つきが鋭い。
「今の仕事辞めないんだったら、全力で戻っていらっしゃい。そうでもなければ、それを言う資格なんてないわ、私をまた一人にさせる気? 子供だけしか居ないと思っていれば味わわないで済むような悲しみを、私に植え付けて去っていくつもりかしら?」
「マリアン、」
 真っ白な前掛けを風にそよがせ、彼女はするりと背を向ける。
 手を伸ばしても届くだろうか、妙な不安が胸に去来する。
 ランゼルが声をかけそうになったそのとき、マリアンの指が、用紙を拾った。
「良いわよ」
「へ?」
「ちゃんと、戻っていらっしゃいね」
 いつまで守られる誓いなのか、
 破られないで済むものではないと気が付いていながら、
「……うん」
 彼は、頷いてマリアンにそっと近づいた。

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