21『マザーコンピュータ*M』
*
だれが赤ちゃん殺したの?
エルンストは才児だと言われていた。
元は孤児だったと聞く。それが街の学校の窓にへばりついていて勉強に励んだらしい。富豪に見出されて現在は軍の研究所に居座っている。
出会ったときは、まだ、十四の少年だった。
「やぁミシェル」
片手をあげてはにかみ笑いをした。少年は食堂内で、まるで外圧に怯えるように背を丸めている。
「あのね、新しい公式ができたんだけど」
「けど、何」
ミシェルが冷たく返すと、彼女のスカートからのぞいた膝をまじまじを眺め、時間をおいてこう答えた。
「ねぇ、新しいチーム作らない?」
*
「起動方法が難しすぎるんだ」
爪を噛み、エルンストはぼそぼそと呟く。その白にも見える金髪がゆるやかに頬に影を落とし、まるで彼を天使のように見せている。
けれど彼らは創世の異端者。
世界を滅ぼす夢を見ている。
「次のマザーコンピュータを作らないと世界が滅んでしまう」
それはずっと――ここ十数年の間言われ続けた事柄。
現時点で処理能力が限界に来ている。白紙時代にさかのぼって考えてもムーアの法則完遂には無理があるだろう。
生体を用いたプログラムは既に頭打ちだ。
基盤に乗せたDNAチップを自己制御で連鎖させてシステムを動かす、それは出来るが、すべてを統御するにはまだ課題が残されている。
一体どうして過去の人間たちは自分たちの文化を葬り去ってしまったのか。
酸の海の復活という予兆、続く天変地異、それらに見舞われながらこれからの時代を生き抜くため、かつての文化に光明を見いだせないかと人々は一縷の望みを託して遺産を探す。
それを愚かだとは言わない。ミシェルも技術革新のために機械仕掛けの神でも構わないから出てきてはくれないかと頭を痛めている。
まさか、誰かの操る舞台なんかじゃあるまいし。
そう言ったのは他ならぬエルンスト。
エルンスト・マークレイ。
彼はこうも言い放っている。
そんなに奇跡が見たいのなら、僕についてくればいい。
……正直、狂っているとミシェルは思った。
同時に、自分たちの業の深さに思い至る。
彼らは世界を作ろうとしている。
滅ぶだけの自然の摂理をねじ曲げて、つかの間の夢を見るために多くのモノを犠牲にする。
新しいシステムが必要だ。
世界を管理するためには、実は情報はあまりに些末で膨大すぎて、人のようには取捨選択がしきれない。
焼き切れていくシステム、それらを失うとただでさえ不透明な世界の情勢がまったく見えなくなる、そうすればどこで何が起きるか分からない、分からないから手だてが遅れる、
滅びはもう、見えている。
戦うために、彼らは今日もシステムを構築する。
人体実験では――人体をシステムに用いる方法では、まず腐敗が問題となった。
脳を用いるには単体の脳――大脳新皮質だけではなく小脳なども含め一般に想像される脳の部位だけをシステムに組み込むか、さてまたはその脳を維持するために人体そのものを同時に取り込むのか。いずれにしても脳を新鮮に保つには限界があった。
生体には時限爆弾がある。
死だ。
システムは世代交代すれば良い、しかしその際に規模が五十年と保たずに交替を強いられるとなれば不便である。しかもそれが人体であり、さらに受け継ぎにおいては情報をただ流し込めばすむという問題ではないという課題がある。
人が情報を選び抜いて処理できるのは、それをある程度の年齢までかけて学習するためである。体得するという言葉通り、人は体験しなければ基本的には学ばない。システムに用いることができるのはある程度学習し、かつ反体制的な自我が芽生える前、人形として用いることができる期間はせいぜいが二、三十年と言ったところか。
「だから、ミールシステムがあるんだけど」
食堂の机の薄い天板を指で叩きながら、エルンストはそう続けた。
「ミール君ではどうしても操作が必要でしょう?」
*
ミール、と言われミシェルの顔が自然と歪む。それを見上げ、隣に座るようにと椅子をひきながら示してエルンストが笑う。
「ごめん、君はアレが嫌いなんだよね」
「いや、それは普通だと思う。私じゃなくてもイヤだろうあんなの」
口元を押さえたミシェルはエルンストのひいた椅子には座らず、向かいの席に腰を落ち着ける。隣に残されたからの座面を寂しげに見つめ、エルンストはそれには触れずに先を続けた。
「……まぁミール君についての議論は不毛だ。とにかく、そのミールだと平面上の構成はうまく行く。溶液と培養布の配分が問題だけど――十数センチまでだったら厚みを付けてもうまくいってる、まぁある種の立体、三面構成だね。でもどうしても腐敗が起こる。生体が一番うまく世界を形作れるのに、生体にはどうしても限界がある」
フォークの先をせわしなく人参のソテーに突きさしては抜きながら、エルンストは目を細めた。
「僕は計算は得意じゃないんだ、だから難しいことはよく分からないんだけど」
「分かってる、それは私の担当だ」
きつく結い上げた髪が頭皮を締め付けて痛む。ミシェルは一度バレッタを取り外し、再びとめなおしてから食事にありつく。まだ温かいスープがようやく胃に溜まり人心地がつくも、それは向かいの席のエルンストによって破られた。
「……分からないんだけど、ミールはどうしても交換できないのかな」
「少なくともガン細胞のように無際限に近くまで分裂を繰り返すと滅ぶ。制御できない。制御のために必要な"部品"は不活性化を高める、うまくいかない」
「だから、それが、交換だよ、交換に変えるンだよ」
自分の選んだ食事が自分の持つ端末に入力され、自分の身分証を使って記録がメインコンピュータによって管理され、即座に調理係が台の上に料理を並べる。それを受け取って研究者たちはこうして食事をとる。研究室で食べてもカフェテラスに行っても良い、こうして食堂で話し込んでも穏健派を気取っても。この摂取はどうしてだろう、今も昔も、一人で行なう場合と複数で行なう場合の両方の効果が指摘される。一人で食べる気安さと、誰かとの間で食べる"コミュニケーション性"と、どちらも、人にとっては必要なものだから。
それにしてもこの会話は研究室外に持ち出すには余りある。その証拠に周りでは自分たちの会話に没頭しているような顔をして耳をそばだてている連中が居る。彼自身は他の研究室の連中にまるで気付いていない顔をしている。
秘密裏に、分割して行なわれる仕事の数々。その全貌を知る者は少ない。だから人は自分たちを出し抜く他者を恐れ、かつ全体を見通した研究を行える者を羨む。本人たちが否定しようとも、それは事実だとミシェルは思う。
「だからね」
「ストップ」
ほとんど一息で飲み干して、スープ皿を抱えミシェルが立ち上がる。立席した彼女をきょとんと見上げ、エルンストは自分のプレートを見下ろし、あぁ、と呟く。
「この続きは部屋でしたほうが良いよね。僕気が利かなくて……実物のミール使う方が分かりやすいよね、説明苦手なんだ」
何を勘違いしたのかそう言うと、エルンストは椅子を鳴らして立ち上がる。
この、幼さを装った動きが嫌いだ。ミシェルは人差し指の爪を噛む。しかしすぐにその仕草をやめて、食堂の出口へと足を向けた。
「それとねミシェル、地上において豊かな土壌が育つ条件を知っているかい?」
不意に、彼が思いだしたように声を掛けた。
ミシェルは振り返り、質問の意図を把握するためにしばらく黙り込んだ。
「土壌? ……肥料か?」
エルンストの抱えたプレートに残された人参を見つめながらミシェルは首を傾げる。エルンストは少し慌てて人参ごと食器を乱暴に指定容器に放り込んだ。
「違うんだ、それもあるけど、生態系において重要なのは動植物や菌類など。それらが世界を作っては食って消費していく。よく出来たシステムだよ、決してすり減らない魔法のようだ。その中でね、ミミズが土を食べてよくこなしてくれるから、野菜もよく育つ土が出来るンだって。オークさんが……僕の、生まれた街の小父さんが、教えてくれた」
そこまでは華やかに笑みで彩って告げる、けれどエルンストはすぐに声のトーンを潜めた。
「それが、理想なのに」
うつむいた頬に影が落ちる。
すでに一度ならず完膚無きまでにたたきのめされた世界で。
子供たちに救いの手を伸ばす者は居ない。
*
なぜ彼がミミズなどと言い出したのか、ミシェルはすぐに気が付いた。
「……このミミズめ」
呟くと、薄いピンク色の透明溶液の中で、赤褐色のヒモが泳いだ。
「そこら辺に適当に腰掛けてね」
扉を開けるが早いか、エルンストは蹴散らさんばかりの勢いで足下の資料を踏みつけて歩いた。あとに続いたミシェルは正面に見える生物入りの水槽を睨み付けつつ踏み出して、豪快に資料を踏んで滑った。
「うわっ……」
「危ないから足下気を付けて」
すでに一番奥まで辿り着いているエルンストが、水槽の左手奥に詰められている資料の束を引っ張り出す。
もう遅いと内心ひとりごち、ミシェルはしたたか打ち付けた腰をさすりながら、尻に敷いた分厚い本を引き抜いた。
「これ……! カルツァー将軍の本じゃないか! こんなところにあったのか」
「えー? それってどれ?」
「この間論文出せと言われたのに資料がなくて困ったンだ……そうかこんなところに」
「ふうん? 良かったね」
エルンストに悪気はない。ただ見つかって良かったねと言うべきところではなかっただけだ。
思わず本をぶん投げそうになり、ミシェルはその腕を下に降ろした。
振り返りもせずにデータをかき集めている姿に、幼いからではなく哀れだと思った。
他の連中と違い、その知恵を理由にして無遠慮さや無知を許せるはずも無かったが、ミシェルは才能という言葉の恐ろしさを思うと彼のことを哀れだとしか思えない。
天才。
それは常にやっかみを受け、賞賛され、同時に常に周りの思う以上の功績を挙げ続けねば滅びるしかない運命だ。
エルンストはそういうことを意に介さない、ように見える。
ただ理論を構築し世界を作るのが好きなだけの子供のようにも振る舞っている。それは紛れもなく成熟した大人の駆け引きを知らないでいる。足の引っ張り合いも見ない振りをしてその水から逃れながら、彼はどこまで生きられるだろう。
「あったよ」
エルンストが振り返った。
「曝黎とそれ以前の時代に掘り出した遺跡の資料。あんまりまとまってないんだけど、文章化されてる部分だけ見て、これによると過去の人類は相当優れた技術を持っていたんだ」
曝黎時代――通称だ、帝国に数度あった隆盛期のうち、最近の五十年間ほどを言う。人々は過去の遺産を求めて彷徨う、それゆえに黎明期を暴き曝すという意味でどこかの詩人か文筆家がつけたのだ。
この世界で生き続けるためになしているとはいえ、そこには墓荒らし同等の不正という不穏さが漂っている。たとえそれをすることなしでは滅んでしまうと言われても。
「しかし、過去の時代のデータは使わない方が安全じゃなかったのか?」
先史時代の文明は自ら滅びたと言われるとおり、内側から瓦解したことを示唆する記述が見つかっている。
少しだけ笑って、エルンストはそうだねと眉尻を下げた。
「でも、使えるものはすべて使わなければ。僕らのいる状況はそんなにも良いものじゃないよ」
「今の時代よりももっと悪くなるかもしれない」
「……だとしても、やってみなきゃ分からないよ」
降参だとでも言うように肩をすくめ、エルンストは資料をミシェルの膝にばらまいた。
「これ……お前がやったのか」
資料文の隙間に、びっしりと細かな記述が見られる。手書きの文字は彼女の知る語ではなかったが、彼が生まれ育った土地の母語であることは知識から分かった。
「やりたいことが、あるんだ」
エルンストは恥ずかしそうに笑った。
その目線は、ミシェルから水槽の中のミールへと移される。
「……子供みたいだって、笑われるのがオチなんだけど」
子供じゃないか、という言葉はミシェルの中で飲み込まれた。既に彼女は目の前の記述に没頭している。
「ねぇミシェル、出来ると思う?」
「……いや、まだ分からない、けど。飛躍が多すぎて……あと、」
「あと?」
「うん、お前、母語で書きすぎだ、途中から急に使用言語が混ざってて混乱する」
「あっごめんごめんなさい! ちょっと頭の中がごたごたしてて」
踏みつけていた資料の束をかき集めて机上に載せながらエルンストは首を傾げた。
「でもあれだねえ、帝国の画一化政策も、便利といえば便利だけど不便でもあるよねえ」
「何で」
一千以上の別言語では会話のしようがないではないか。
現に今こうやってミシェルがエルンストの文章を読み彼と話すことが出来ているのも、帝国の作った規定標準言語があるためだ。もしそれが無かったら、技術の発展に多少の支障が予想された。帝国語が無ければ無いで他の言語を用いて統一して会話することも可能かも知れないが、それでもここまで広域で通用する言語は他に無い。
エルンストはミシェルの手から資料を抜き取り、文面を目で追って苦笑した。
「だって何だか寂しいじゃない、自分が誰かなのか、小さな単位から縋ってかないと辛いでしょう?」
最初から巨大な範囲を包含する国家に住んでいたら、よりどころが少なくなる。生まれて最初の社会である家族、そして地域、そこから広がる世界たち、それぞれに属してそれぞれに生きているから、人はその小さな社会の文化を真似されるのを侮辱だと感じる。
人は何かに所属していなければ生きられない生き物だ。
「分からないけど」
正直な言葉に、エルンストはただ小さく笑っただけだった。
「じゃあどうしようか、一週間後にノイン研究室でスタートする?」
「決定事項か」
「だって、僕はやれると思うから。君が計算して実質上のバグ取りをしてくれる、信じてるから」
気楽に言われ、ミシェルは軽く頭を抱える。その仕草に、エルンストはあと少しだもの、と言って手をさしのべた。
「あと少しだよ、ミシェル。もうすぐ彼女が生まれるんだ」
「何だって?」
瞬間、ミシェルの表情が引きつった。
「うん、マザーコンピュータだから、彼女。彼女であってるよね? ファーターはカインザークで充分だし」
父なるもの、その名カインザークは歴史書を意味する。一カ所に集められつつある巨大図書館は現在もまだ未完成だ。
肩をすくめ、エルンストは床に座り込んだままのミシェルを引き起こした。
「あぁ、やっぱり顔色が悪いなぁ」
ほっとしながら立ち上がったミシェルが、その手をふりほどいた。
「お前ッ、」
「……あのね」
彼は困ったような笑みを浮かべ、静かに、その人差し指を部屋の奥へ向けた。
「奥の仮眠室、今ならまだ誰もいないから。使った方が良いよ。暖かくして寝てなさいよ」
「いつから」
歯がみするような声に、エルンストはいつだったかなあと頼りない。
「将軍がここに来なくなってから……やっぱりなって思ったんだ」
ミシェルの視線はどこか宙を捕らえ、そのままふらふらと泳いでいる。それから目を逸らし、彼は小さな声で続けた。
「でも本当はもっと前から気付いてた。皆、君が彼の愛人だって」
少しだけ脇腹の辺りが痛んだ。
*
研究室に人気は戻らない。隣の部屋ばかりにドアの開閉音が響き渡り、人の出入りする気配がある。
考えたいことがあるから貸し切りにしてもらったとはにかむように笑い、エルンストは調理用に置かれていた鍋を引きずり出して蒸留水で中を洗うと、すぐにミルクを注ぎ入れた。
「ねぇ君牛乳飲めるんだっけ?」
後ろに投げた声は、ソファベッドに仰向けに転がっているミシェルの耳に届かない。
「お前、生まれはどこだ」
成り立たない会話に、エルンストは苦笑を漏らす。
「ガイアだけど」
「そうじゃなくて」
意図が読めない。
エルンストは首を傾げる。
ミシェルのほうは右手をあげて自身の額からまぶたにかけてを手のひらで覆っている。表情は幾分和らいだが、それでも怯えるような殺伐とした雰囲気がそこかしこに漂っていた。震える睫毛がこちらを向く。
エルンストは少し上向いて、それからため息のように呟いた。
「ルーケンターク。七番、カインとアベルより無茶な戦争をやったクチ」
「……それは、……その、大変じゃないか、お前みたいのだと」
ルーケンターク七番は、スラム街の奥にある番地名。周りをぐるりと有刺鉄線で囲まれており、その規模は数キロメートルに渡る。そしてそこは廃棄物の山で埋もれており、別名エデンとされている。
そしてそこを島にする者らが愛憎劇を繰り広げたことで有名だ。
子供がまともに生き延びるには難しすぎるその街で、彼は一種天使めいた外貌を持つのに、ペドフィリアにも遭わず薬物にもまみれずその知略だけで生き延びたというのだろうか。ミシェルは半ば呆然と彼を見つめる。まるで世間を知らない子供のように振る舞う彼が、過酷な世界を生きていた、今の精神のまともさに、その剛胆さをかいま見た気がして目が覚める。けれどエルンストはそれを哀れみだと捉えたのか、ため息をついて軽く肩をすくめた。
「そんな目で見ないでほしいな。臓器用に解体されてもいないし、僕は生憎拾われた先が良くて、人間の尊厳自体を踏みにじられたわけじゃないから」
「え、」
「うん、僕がストリートに居たのは一年にも満たない期間。もっと小さい頃はどこかもっと他の、孤児院かもしれないな、どこかに居た、子供が沢山居て、ときどき洋服を選ぶみたいに連れて行かれる」
「それは……」
「生憎そのころから僕は外見より中身が重要視されててね、そういう繊細な子供は却って壊すのを生き甲斐にされることもあるんだけど、僕の場合幸いと言うべきか大量の書物とかを与えて貰えた。貴族だのなんだのよく分からなかったけど、まともに生きられる道があるならそれに縋るさ」
街の学校にへばりついていたのは真実。
それはホームに入れられたその日の出来事。
言い切って、彼は表面が少し泡だったミルクを鍋からマグカップに移し入れる。
「救いなんてないよ、僕たちは自分自身で光るしかない、光を見出すしかないんだ。それがどんなに辛くても」
声は常と変わらない。けれど、噛みしめるように一語ずつが発される。
生きろと。
「……君が生んだ子供が、君を恨むかも知れない。生まれた以上は生きなければと苦しむだろうから。でも、君は生みたくないのかな、どの子供が生まれてみる前から死にたいだなんて言うんだろう? 僕はねミシェル、死にたいとは思ったけど、あんまりにも悔しいから死ねないんだよ。少しくらい夢を見たっていいじゃないか、愛されるって思ってみても、いいじゃないか。君がその子を愛してやれば良いじゃないか、誰かの代替物としてじゃなくてその子自身として見てやれば良いじゃないか」
迷っているようだから、と言い、彼は自身の無遠慮さを詫びる言葉を吐いた。それでもどうしても言っておきたかったと。
告げて。
「僕の生まれ育ちで同情なんて得たくない。他の連中のほうがよっぽどきつい目にあってる、僕は自分のやりたいことのためにそう言う人たちを捨ててきた、あの街から出たし他の街を転々としたりもした。条件が良いから今のマークレイ姓を貰ったけど、これだって僕の技術次第では解雇だってありうる。そうなったら他の手段で生きなきゃならない。今よりずっと目的から遠ざかる、それはイヤなんだ」
「エルンストは、どうして……何を、したいんだ」
問われ、噛みしめた奥歯が、ふと力を抜く。
「……そうだね、理解されはしないだろうね」
マグカップを手にミシェルのほうへ向かい、彼は近くにあったパイプ椅子を足先でひっかけて位置をずらして腰をかけた。
「はい、ミルク。ちょっと温めすぎて熱いかも知れないけど」
「ありがとう……」
ミシェルは、いつから気付かれていたのかと恐れている。
エルンストが急に語り出したのを不穏に思っている。
何か、ある。
「ねぇエルンスト」
何だい、とでも言うように、幼い双眸がミシェルの目をのぞき込む。
それを踏みにじりたい欲求に駆られながら、ミシェルは浅く微笑んだ。
「ねぇ、知っていること、すべて教えて。隠していることも全部」
*
怯えた。ざまを見ろと思った。壊してやる、お前たちが守ろうとしたものを。
「ごめん、ミシェル」
体を退きながらエルンストが椅子を蹴立てる。その動きにあわせて彼の持つカップからミルクが筋を描いて床に落ちた。
「ごめん」
「謝るな!」
叫ぶ。叫びながら、ミシェルの血の気が引いている。
「まさか貴様」
「僕はやってない、」
それを言えば、事の半分は説明されたも同然だ。ミシェルが上掛けをはねのけて指でエルンストの首元を捉える。
「逃がさない」
ぎらつく目の瞳孔を見つめて、エルンストがわななく指に手をかけた。
「出来ないよ、ミシェル」
諦めたような、吐き出す声。
「君の子供は、もう居ないんだ。もう三週間も前にここは」
「言うな!」
エルンストはびくりとして口をつぐんだ。
それを見上げ、膝立ちしてミシェルは自分自身の記憶を辿る。
「私の赤ちゃんは……?」
頬を伝う水滴をエルンストの指がぬぐう。
「居る。けれどこのままだと無事に生まれるかは分からない。五分五分がいいところだ」
ミールシステムを統御していたマザーが暴走した。いつでもそういった事態に対応できるように帝国は常に研究所を分散させて保持している。
だから切り捨てられ封鎖されたこの研究所の研究室は、怯えと恐怖に満ちている。
全部で三十余名。
そのうち、まだまともな精神状態を保っていられるのが十七名。
初日に、一人が自殺した。所長だった男だから責任でも取るつもりだったのかも知れないが、だからあの地域の出身者は使えないと陰口ばかり叩かれた。
次の日に、外に出た者が軍部に狙撃されて死んだ。
「さて、どうする?」
エルンスト・マークレイは表情を変えない。
「こうなった以上、帝国のシステムに変異を来たす恐れのあるここの研究所のマザーは切り離される。それを使ってた僕らは、彼女の洗脳を受けてないとも限らない、ここで扱っていたのは主に……脳に作用するシステムだから」
言いよどんだのは、何と言い当てれば正しいのか分からないから。
「今回のマザーは狂信的だね。ミシェルの腹の子供を自分の子供だと思いこんでいる」
頭上で、電灯が数度揺らめいて明滅する。
「ミシェル、落ち着いて。僕らはすべてを越えるものを作らなきゃならないんだ」
ここから出るためにも。
「今、君の子供は子宮から引きずり出されて弱ってる。でも幸いと言うべきか、マザーの製造過程で利用するはずだった疑似羊水や栄養はあるからどうにかなってる。あのまま育てば大丈夫、だけどマザーがどうするつもりなのか分からない、だから守るためにも僕らは新しいマザーコンピュータを作るんだ」
エルンストに掴まれた腕が熱い。ミシェルは頷き、そのたびにこぼれた涙が上掛けの端を濡らした。
「大丈夫だから。もう、今のマザーは効力を失ってる。僕らの会話に攪乱作用も及ぼせなくなってきてる。だからもう作れる筈なんだ。今度こそちゃんと」
でも、あの不完全なマザーコンピュータでもこれだけ人間を操ることが出来たのだ。それ以上のものを作ったら、そう思うとミシェルの腰は上がらない。
「立って、ミシェル」
天使のような顔をして、その少年は穏やかに告げた。
「立てミシェル、君の子供のためにも」
マザーコンピュータの信号によって惑わされた者たちがそれぞれ持っていた護身用の銃器で撃ち合ったり薬物を煽ったのは三週間前。ミシェルの記憶もそこで一旦は途切れている。子供を連れていったのは操られたままの元の仲間たち。
「どうして子供が欲しいんだろう」
呟いて、エルンストが資料の紙束に新しい公式を書き付ける。
「何だろうな、新しく生まれるためかな」
他人事のように言われ、ミシェルは憤りながらも彼の描く構図を誤りの無いものに置き換えていく。まるで文書を清書していくようにして、彼らは徐々に辿り着く。
「自我を持つのはある程度は必要だけど、でも人間に近い価値観を叩き込んで、今の時代に合うとか、次の時代に合うとか、汎用性を持たせなければ文字通りただの頭でっかちになりかねないし。だから、ヴェステシステムを使いたくて」
エルンストは、静かに笑う。本当に、夜の静けさを失わないように。そっと水面を撫でるように。
*
正式にはウェステとされているが本来はヴェステと呼ぶべきだ、そう言いながらエルンストは頭をかいた。その薄い金色の髪をほの暗い明かりが艶やかに撫でる。
「"潔白"とはよく言ったものだよ、人間の指示を補佐にして走らせるシステムなのに」
「まさかここのマザーを外部操作役の脳と繋ぐのか? 正気かエルンスト」
「いや、それはしない。それ以外の方法でマザーコンピュータは停止させる」
「よせ、どうせ狂ってるンだ、ここのマザーは! だからどのみち自家発電装置が作動しなくなればそれで」
「おしまい? 違うね、あれは休眠に入るだけだよ。そんなことも忘れたの? 僕らは万が一にもシステムが壊れて使い物にならなくなったりしないように親切にもあの子をあちこちに分散させてしまう方法を選んでいたんだ、だからもし本体が壊れたとしてもあの子は動くよ、他のメインサーバーを食い荒らして自己増殖する、さながら悪性のウィルスみたいに」
だから、その上を行くシステムが欲しい。
すべてのマシンを越えて、すべての情報を左右できる機械が欲しい。
「何故、そこまでマザーコンピュータ製作にこだわる」
ミシェルが低く問うと、彼は背を向け、ミールの浮かぶ溶液を包んだガラスを指先で軽く叩いた。
「何故、って?」
水面が揺らぐ。中の生き物は無反応に、ただ決められた列を泳いでいる。
「何故って……君は難しいことを言うよね。ときどき」
闇の中に、光を避けて水槽が並ぶ。その奥にさらに一面ガラス張りの、一見すると巨大な温室のような場所。
そこへ足を向けて、エルンストはかすかにため息をついた。
「ねぇ、何で今製作中のコンピュータに僕がMだなんて通称与えたと思う?」
「Mはマザーじゃあないのか?」
「マッド、でもあるけど。マッドサイエンティスト」
「……まさか。違うだろう?」
ミシェルは指定された式を総括したプログラムを逐一動作確認しながら眼前の機械に埋め込んでいる。先程のヴェステシステムの話で一旦中断した作業を倍の早さでこなしながら、彼女はカルテを一枚めくった。
やがてその作業から顔をあげて、ガラスの前にたたずんだ彼の後頭部辺りをじっと見つめる。
「それとも、本当にマザーコンピュータだからMなのか? 今の暴走中のヤツなんて名前もないぞ」
「あはは、それでもいいんだ、だけど本当は違うんだよ」
エルンストは静かに笑う。そういえば、彼の表情で思い出せるのは笑顔ばかりだ。不思議に思いつつミシェルは暗がりに目を凝らした。ガラスの向こうに浮かび上がる演算システムがまるで醜悪なオブジェを融解したあとのようにうだっている。
「あれはね、母国語で」
突然変異、と、いう意味だ。エルンストは呟いて、感傷なんだけどと一瞬真顔になってから恥ずかしそうに頬をゆるめた。
「勇気、見本、音楽家、ミューズもあるね、苦労、朝、中央。中心、核心とくると似合いでしょう? そして口」
「口?」
共通語ばかり学んでいて外国語に興味のないミシェルにはよく分からない。
口だよと答え、エルンストはわずかに振り返り、その金髪を軽くかき混ぜた。
「突然変異になればいいと思ったんだ。これまでのものが変異して、新しい処理システムになれるように。それから、世界の情報の中心に。そして、僕らがたとえここからいなくなっても、それで終わりじゃない、これは未来への口になるんだ、伝え聞いてくれるんだよ、彼女が代わりに僕らの時代を未来へ伝える」
それは素晴らしいことじゃないかと、エルンストは呟いた。
戦災孤児、その後天才であるが故に富豪に引き取られ、今はこうして若いながらにして開発に携わる少年。
彼は家族がないという。汚染された地帯に生まれたために生殖機能も失った彼は、クローンでは子供を作る気もないと言う。そして彼は、引き取り手たちも皆自分の頭脳しか必要ではないことをよく知っていた。
たった一人でこの世界を彷徨う、彼がただ、選んだこと。
「僕は、世界に残したいんだ。生きた証とかじゃなくて、ただ、次の世代へ、少しでも僕が関わった世界が残されていくように……少しでも、便利になるようにっていうのも祈ってるけど」
息を吸い込んで、彼は、決然とこちらを振り返りきった。
「結合に、人の判断能力を使う」
迷いなど欠片も見受けられない表情だった。
「人間のすでにできあがっている頭脳を結合して統御するんだ。その人格も全部飲み込んで。ゼロから仕込まなきゃならない場合の手間を考えるとそうしたほうが絶対早い。伴走させればシステムは早くから人の指示に従える」
「早いって! バカじゃないかお前は!?」
一体誰が犠牲になるのだろう。
拾ってきた人間でも使うのか、これ以上の"被献体"の数は消費できないと言うのに。
「死体も孤児も増える一方だし! どうせ帝国からしてみりゃあ屑みたいな命だろうさ、けどまさかお前までそんな……! それに今は外部とは遮断されていて居るとしても研究者しか居な、」
「最後まで聞いて」
りん、とした声だった。
人は誰も通らない。外で、それぞれの結果を待っている。
「最後まで、ちゃんと聞いてくれないか」
迷わない、冷たく凍えた牙のように、声がその場をしずめていく。
だから彼女は押し黙る。エルンストは微笑んで、そして静かにこういった。
「だからね、僕がやろうと思うんだ」
瞬間、腹の底から脳へめがけて何かが沸騰した気がした。
「ダメじゃないか! そんなことしたら一体誰がシステム統合をッ」
「君がやればいい」
冷静と言うよりは、冷たい声。
耳が凍えて、じんとした痛みを訴えた。
「お願いだミシェル。僕がこれ以上、誰かの犠牲を望む前に」
どうか、受け入れてくれ。
それはどこまでも残酷な宣言。
終わる世界のために何故犠牲が必要なのか。
「子供がいるし、君は生き残るべきなんだ。僕は、これを作れたらそれで良いんだ。他に執着するものごとなんてないし」
エルンストはもう決めている。だから何を言っても聞きはしない。
ミシェルはがんと拳を機械に打ち付けて、それからゆっくりと顔を上げた。
「私は、……置き去りになるんだ?」
「え?」
呟いた途端、口に出した本人であるミシェルのほうが呆然とした。言われたエルンストは聞こえなかったのか、きょとんとしたまま続きを待つ。
白衣の裾を翻し、ミシェルは廊下に駆け出した。
(何だ?)
口元を、手のひらで押さえる。
「何だ、今の」
遠くで、幼い赤子の声が聞こえる。
それは未だ生まれてもおらず。
*
細胞は自己組織化する。
「雨、風、嵐」
妙な節回しで楽しげにコードを繋いでいくエルンストは、それらがいましも自身を食らいつくさんとするのにもかかわらず殆ど恐れというものを見せない。
生体で出来たコードは半透明の白で、指先にかすかに生ぬるい。
「光、太陽、延長する波、波長」
歌は暗がりの中にまるで子守歌めいて響き渡る。床の金属を目に見えては揺らさず微細な振動が空気中の埃をかすかに巻き上げる。光らせる。
廊下から、一条の光がつよく差し込んだ。それがすぐに収まり、目が足下にある緑みを帯びた非常灯だけの明るさに慣れていたエルンストは顔の高さにまで掲げていた腕をようやく降ろした。
「……エルンスト」
扉の前に立つ女は、顔をうつむけたままそう口走った。
「お前、本気でやるのか」
扉を開けて入って来たミシェルは、腫れたまぶたに手を当てていた。エルンストは一瞬コードに落としたままの目を見張って、すぐに言葉を選んで口に出した。
「泣いてくれるの? ありがとう」
明日の天気を聞いただけのように、無感動なほどさらりと彼は返す。目も上げずに言い返されてミシェルは明らかに憤ったが結局言葉は舌の上までも転がり出ては来なかった。
「僕は、……さっきはああ言ったけど。やっぱり、残したいだけなのかもしれない」
生きたコードの生臭い匂いに耐えかねて防毒マスクを引っ張り出し、それをエルンストに放りながらミシェルが目だけで先を促す。エルンストはマスクを脇に置き、再びコードを慎重に溶液から溶液へ、バケツから巨大な水槽へと移し替えながら頷いた。
「……僕自身の痕跡も。残したくないと言ったら嘘になる。僕自身に繋がるものは面倒くさいから全部要らないけど。どうせなくなるものだし。でも、僕がこの計画に自分の夢を託して残そうとしたのは本当だ。綺麗事かもしれない、僕はばらばらの情報を自己制御できる組織を作って、それ自身は中立なままで人の上にある"ただの網羅体"にしたかったんだ――僕は生きていて今の僕という基準を越えられない状態になれば要らなくなる存在だから。要らなくならない、進化するものを作りたかった。神さまみたいに」
「……要らないなんて、そんなもの」
「ない?」
言いかけたミシェルの言葉を遮ってエルンストが急ぎ足に言葉を並べた。
「ないなんて言い切れる? 君たち人間が取捨選択するのは仕方ない、だって世界は情報に満ちすぎていて、だから機械ではおかしくなってしまうほどのデータで焼き切れないために僕らの自我外でも恣意的に取捨選択する他ない。そうしないと壊れてしまうから」
「だからッ、そういうデータの話じゃなくて!」
苛立つミシェルの声に、エルンストはあくまでも穏やかに語りかけた。柔らかに見えて、その実融通の利かない突き放す言葉。
「……データじゃなくたって、人は必要になったり必要じゃなくなったりするよ。僕は利用価値がある限りその人の視界に存在することを許されている」
「そんなの……! 間違ってッ」
「そういう話がしたいんじゃなかったんだけど」
切り上げようとしてかエルンストが立ち上がった。コードは殆ど溶液の中に落ち込んでいる。液体の中ではミールたちの微々たる群れが一旦潮のように引いて、すぐさま喜ぶようにわっとコードに群がった。これから彼らはコードが内部組織かどうかを学習し自分たちの内部に組み込んで行くのだろう。アルミに似た薄い金属パックに包まれていたゲル状の透明な溶液をコードとミールの上に落としながら、エルンストはかすかにため息をついた。
「……あんまり僕を甘やかさないでくれないか。でないと孤独が薄れてしまう」
「薄れたらどうなる」
年齢の幼さに見合わない言葉に眉根を寄せて、ミシェルはしかしそれを指摘しはしなかった。ただ知りたいと思っていた、何故かは知らない、ただ彼に説教がしたいわけではなく、純粋に理解できない異物だとしても知りたいと思った。
「期待、してしまうから。僕がそれでも愛されてるかもしれないと無闇な期待を抱いてしまうから。だから駄目だよ、作れなくなったらおしまいだって思ってなきゃ、もう僕はこれ以上この高みになんて立ってられないよ」
足下に影が伸びている。それを見つめ、彼は困ったような笑みを漏らす。ミシェルの選んだ公式とエルンストが新たに組み替えた理論とで埋め尽くされた紙片に、足下に落ちた影が重なる。
「人の欲を捨ててまで製作に執着する理由がないよ、それはとても怖いことだ」
怖いことなのだ、迷うことは。
彼はその言葉が嘘ではない証のように震えている左手の手首を右手で静かに押さえつけた。
「しにたくない」
感情の吐露に、ミシェルは思わず彼に手を伸ばす。しかし意に反して彼はミシェルの腕を振り払った。あと一歩のところで触れ損ねた右腕が、じんとした熱をもってしびれを訴えてくる。
「ご、ごめん」
その自身の苛烈な反応に逆に怯え、エルンストが身をすくめる。
「ごめんミシェル、でもごめん、触らないで。僕はそんなに綺麗な生き物じゃない」
君の愛を受けられるだけの生き物なんかじゃいられない。
*
理想は常に現実世界によって裏切られる。
カオス。ある一点が決まればその先をすべて規定しうる、筈なのに、必ず起こりうるノイズとしての作用。
「……僕は君を、見誤っていたのかも知れない」
エルンストは目を細める。決して好意ではない意味で。
床に伸びた外部灯の明かりが、ちらちらと視界のうちで瞬いた。
「……どうしよう」
温もりをしっている腕が、今置き去りにしてきた体をもう一度確かめたくて震えている。これから訪れる確実な死を恐れている。
それでも、知らなければ良かったとは、言いたくはない。
たとえそれが苦しみしか生みださないものだとしても。
*
「人間だけがむやみな殺しあいをするわけじゃない。平和の象徴たる鳩は弱い鳩をつつき殺す。単にはなしたときの羽音が大きいから使者に選ばれただけさ」
廊下に落ちる声は虚しい。エルンストはなるべく平静な顔で既存のデータに修正を加える。
そうしていつも観念は温存されつつも改竄される。時代によって都合良く誰かの存在を守るために。
正しく。
「多分正しくあるためには必要なことなんだ」
足下に広がる赤い飛沫が徐々に互いを食い尽くす。侵食が終わればそこには血の海しか存在しない。
最後まで暴走したマザーコンピュータの指示に従っていた連中の居た倉庫へ続く扉を見つめ、それから彼は倉庫前の小型の管理システム用コンピュータに指示を与える。この扉を閉めるように。
正確には、自分自身をとめるために。
「くっ……そ」
中で撃ち合いを繰り広げた者たちのうち、生き延びた一人が幽鬼のように頭をもたげてこちらへ歩く。自身の足がまた一歩、倉庫の中へ進もうとする。
ぴちゃん、と足が倉庫の奥からあふれ出す血を踏みつけて跳ねさせた。
「来るなよ……っ」
エルンストは汗の滲む額にしわを寄せる。
迂闊だった。
これまでほぼ無事でいられたのは泳がされていたからだ、そう気付いたのは、自室に戻る途中で不意に"何となく"曲がる筈ではない角で曲がってしまったからだった。
無意識の作用とは言え、それは"彼"の意識ではない。区別がつくのかと言われればその証明は難しい、けれどエルンストは確信する、自分が狂った未完成のマザーコンピュータに呼ばれて歩いていることに。
「もうすぐ、お前を越えるものが生まれる、それが憎いか……っ」
間に合わない。
自由になるのは手と顔の表情くらいだ。それらは人がもっとも多様に自己表現すると言われる器官。眉をひそめ、首すらぎこちなく画面から外させられそうになり焦りながら彼はデータを入力する。
不完全だがMを起動させるしかない。現時点では互角でしかない、ましてやMはまだ現代の人間の観念を知らないでいる。何ものをも越えた包括者こそが人に必要だと、支配されるのではなく世界を見る一つの基準として必要だと、思うから、本当はその最後の一押しは不要と言えるのかもしれないけれど、エルンストはそれ無しではMが不完全であると感じた。
だから迷う。
「お前、僕と同じ道を歩くなよ……!」
震える指が、一夜限りの邂逅を覚えている。
いつか裏切られ捨てられる運命であろうとも、エルンストはその一瞬の情に負けた。
「ミシェル、僕は君を」
指が、その名を刻みつける。
約束をしよう。
Mは世界。
優しい声が、もう耳に目に満ちて、たゆとう、白熱してからの暗転はいっそすがしいものだった。
*
あれ、死んでない。
それが最初の感想だった。
エルンストは血に濡れた手をあげて、それからのろのろと視線を上にあげた。
べしゃりと頭から潰された端末が白煙を吹き上げて沈黙していく。どうやらシステム操作の終了間際に誰かの放った銃火器の何かがその機能をとめたと思われた。
「った……いな、ぁ、もう」
額に手を当てると、視界を塞ぐようにして血液が流れる。それが手についたものではなく自身の切れた額から出ているのだと気づき、エルンストは舌打ちした。
「これじゃMと同化するのに邪魔じゃないか……!」
怪我をしていると、その分だけエルンストの身体が自身の身体維持に力を傾けてしまう。出来ればベストコンディションを保ちたかったのだが、と思っていると、後ろから頭をはたかれた。
「何言ってるンだこの……ッ」
ミシェルが、手からずり落ちかけたライフルを引っ張りながらエルンストをその場から引き離そうとする。
あぁ何だ君かと安堵したように言われ、ミシェルが再び涙をこぼした。
「ふ……ッざけるな! バカっ」
「あの、暴走中の機械はどうなった? 僕は、Mを起動させ損なったのか……?」
「死にたくないんだろうが!? あんな機械のためじゃなくてっ自分自身のために生きろ!」
耳を打つ声にエルンストが目を見張る。
ミシェルは、たとえ恨まれても彼を決して死なせはしないと思った。
少なくとも、こんな形では。
「聞いてくれミシェル、」
自分たちに許された領域である研究室に戻って、エルンストは手荒く手当てされて簡易ベッドに押し込められた。
何故彼女がそれほどまでに苛立っているのか理解しない少年は、彼女の神経質なほど細い指に引っかかれて少しだけ勢いを収める。頬をほこりくさいカバーに押しつけて、エルンストはその言葉を言う機会を待つことにした。
ミシェルは苛々とマグカップに温めた紅茶を煎れてミルクを大量に注ぎ込む。そうすることで熱さは幾分かやわらぎ、エルンストはとりあえずぶっきらぼうに突き出されたカップをベッドの中に転がったままで受け取った。
ミシェルに一瞬隙が出来る。それを彼が見逃すはずもなかった。
「ミシェル、僕は、」
途端、女は白衣を翻して飛びかかってきた。思わず悲鳴をあげたエルンストは毛布の中に沈み込み、しかしそれが失策であったことを悟った。真上から体重をかけて押さえ込まれ、エルンストは動けない。
「み、ミシェル痛い苦しい、」
彼女は無言で動かなくなった。無反応に怯えながら、少年はそっと布団の影から顔を出す。
「き、聞いて?」
「イヤだ」
上目遣いでこっそりと聞いた少年に、ミシェルは即答して上から更に布団を被せる。
「っきゃあぁあああ襲わないでごめんなさい!」
「うるさい襲わない。昨日のお前じゃあるまいし」
抱きしめられてそのままにされ、エルンストは布しか見えない視界の中で頬を染めながらも声を出した。
「聞いてくれミシェル、僕は君を捨てようとした」
ミシェルは手に力を込めた。エルンストは布団の中に押し込められて息を塞がれ、みっともなくなきごえを出した。
「ご、ごめんなさい! 僕が悪かったです!」
「何の理由で謝るんだ! お前は!!」
「だ、だって……! ミシェルが、僕が色々、考えてること言うと怒るから! 僕が、悪いのかなぁって、思って」
「でも変えないんだろう、改めるつもりもないだろう」
「うん、まぁ……一朝一夕には。無理だよね」
「……バカだこいつ」
ミシェルはぼそりと呟き、唇を噛んでから、そろそろと言葉を選んだ。
「何で死に急ごうとするんだ? 私はお前の、生きる理由にはならないのか? マザーコンピュータMが完成したらそれでお前は終わりなのか? そうじゃないだろうが」
「そうかな。昔話を知ってるかい? 全然咲かない梅の木を育てるお爺さんの話。遂に念願叶って花が咲いて、そうしたらお爺さんは思い残すことがなくてそのまま、」
「……お前にとって、私は置き去りにしても良い存在なのか」
一瞬、エルンストが黙った。それからシーツを押し引きしながらベッドの端から顔を出して、ミシェルの目を、じっと見つめた。
「ホモ・サケルだよ」
法の外にあって聖なる人間という名を冠されて殺される生き物。
なぞらえるにはあまりにも呪われた言葉だった。
「また……お前は」
「うん、ごめん」
まるで慰めに来た飼い犬のように幼い仕草でエルンストが顔を寄せる。ミシェルはそれを振り払わない。
本当に、自分が彼を哀れだと思う以外でこの感情を持っているのかどうか分からなかった。
残念ながら将軍の子を身ごもったときと同様で、好きなのかそうではないのかふと振り返ってみると本当はどうでも良いような気がしてならなかった。
だからだろうか。
だからエルンストは決して彼女の手元に残るような雰囲気を見せないのだろうか。
あの将軍が去ったように。
エルンストはミシェルのほうへ寄ってきて、それから肩に頭をもたせかけた。
「殴られてもぶたれても、それはさして意味を持たなかった。俺は踏みにじられてもおかしくない人間だから」
人称にズレが生じる。それは些細な非正規用語の乱入でしかなかったが、ミシェルは変化に目を見張る。
「……本当は、生きていてもあまり意味を持たない生き物なんだ。次の種へ繋ぐこともないし誰かに与えるほかに道のない生き物だって居るんだよ、いくら与えても誰も返さない、それでも俺は良かったんだよ……誰も振り返らなくても、いつか誰も苦しまなくてすむのならそれで……」
「エルンスト?」
穏やかな寝息をたてている少年の頬は疲労のためかひどく白い。
明かりのおちた頬に軽く口づけて、ミシェルは彼をきちんと寝かしつけ、それから、どうすれば良いのか途方に暮れた。
願い事を叶えるための犠牲はどれにしておこう?
*
「最後に聞いておきたいことがある」
お世辞にも静かだとは言い難い音楽が鳴り響き、エルンストはミシェルの声を無視するようにしゃがみ込んで小さな機械に手を触れた。
「あっれーおかしいな……ラジオとか駄目なのかな、あれで軍も意外と抜けてるから多分兵糧責め状態のここにだって電波くらい流れてると思うんだけど、あっ」
放送電波が拾われて音声に変換される。
あちこちの帝国領土内で子供が変死する事件が起きていることを告げる声に耳を傾け、エルンストはそれからしゃがんだままで振り返った。
「何?」
「……最後だから、ちゃんと答えて欲しい」
『で、……はそ……です。次のニュー……で』
がすがすとした雑音ばかりの中に、ときおりまともな音声が入る。
『あらゆる汚染の元凶たる人間を駆逐すべく自己判断した軍部の試作品が現在も……』
「うん、多分君の子供はもう、ひきずりだされた時点で死んでる」
「それは分かってる」
痛い。けれどそれは承知している。信じたくはない、けれど理性は言う、あれは無理だと。
「それじゃなくて、お前が……」
「うん。うん?」
「お前が、私を選んだ理由だ」
虚を突かれ、エルンストが片手を床についた。
「え、え? 理由? 研究室が一緒だったし君は頭が良いし面倒見も良いしそれに」
「それ、に?」
理由の"普通さ"に拍子抜けしたミシェルは、続きに少し期待して待つ。
「君を選んだのは、……君なら、迷わないと思ったからだよ」
意に反し、彼はあくまでも残酷な事実を突きつける。
「君は殆ど誰かと喋ろうともしなかったし孤独に慣れてるふうだった。資料製作も完璧だし――少なくとも僕が頼んだわずかな仕事くらいは遂行してくれる責任感もあるだろうし、たとえMが暴走しても君ならばとめてくれると思った。だからチームを作って動きたいなと思ったんだ、どのみち僕が決断したときは周りの連中は既に所内のマシンとの心理合戦に負けつつあったし使い物にならなかった」
冷静に告げられ、ミシェルはどこかがっかりする。
何を期待していたのだろう。
「そ、そうか」
少しだけ羞恥で頬をそめ、すぐに真顔に戻って仕事に戻る。それを見てエルンストは首を傾げ、しかしすぐに、目の前の小さな水槽をじっと見つめた。
それが彼の棺桶になるのだ。
「どうしてもやるんだな」
ミシェルは問う。どれだけ手を掛けてもいなくなる野良猫と同じようにして、彼は春が来ると雪のように溶けていなくなる。
春になるのはミシェルの役目だ。
小さな水槽はミールなどの居る場所と連携した溶液で満たされている。彼の精神を深く眠らせ肉体を維持する薄紅色の液体は、表面でどこかどろりと粘ついた明かりを弾いた。
「何故そこまで絶望する」
外ではまだ研究者たちが息を潜めている。
それぞれの仕事をやり遂げようと模索している。
エルンストが死ななくても、マザーコンピュータMが起動しなくても、あのマシンが止められるかもしれない。Mを生み出すのに犠牲が必要ではなくなるかもしれない。
ミシェルの声に、いつもと変わらぬ白衣姿でエルンスト・マークレイは薄く笑った。
「絶望しかないのは当たり前だから。薄明を信じてるわけじゃない、雪は溶けて足場は失われる、僕はやがて不要になる」
その考えを、ミシェルはどうしても許すことが出来ない。
「要らない人間なんて居ない――!」
変えさせたい、ミシェル自身も他人が特別好きな人間ではないけれど、エルンストがいつも指の隙間から砂のようにこぼれだしてしまうことは許せなかった。許せないというよりも、ただ、哀しかった。胸がただ寒かった。
「ミシェル、泣かないで」
ぎこちなく振り返り、振り返ってからエルンストは目一杯の微笑みを返した。
「人は希望を失わない。そういうものであってほしい」
「え……?」
希望を持たないわけではない。
エルンストは笑って、ただその両手を蝶のように大きく広げた。くるりと右足を引いて回り、白衣の裾が翻る。それで立てられた微細な埃や細菌でさえその溶液は食べて変異する。マザーコンピュータMの端末となるべく、彼は、溶液に、自ら踏み込む。
刺すような刺激と共に彼の呼吸は奪われる。意識を失う限りにおいて彼の身体は維持されて、そうして二度とそこから出ることはない。
その精神もまた闇に閉ざされ、ネットワークの一部をMが学習するための器官だけでしかなくなる。
ミシェルは呆然とそれを見ていたが、やがてラジオを蹴りつけて黙らせた。小さな機械は一度床でバウンドして、壁に当たってから静かになった。
鈍い音がして扉が無理にこじ開けられた。同時に銃声などが響き渡る。
戸のふちに指をかけて辛うじてそれに縋って立っている男は、胸に研究所のIDカードを下げていた。
「た……ッ大変だ! 軍部の連中が感染した機械を片っ端から壊して回って……ッ!」
「何……っ」
ミシェルは思わず眠りについた彼を見やる。
今ここでこれらのシステムを壊されたりしたら、元も子もなくなる。
「どこから侵入してきた!?」
「あいつら研究所自体を吹っ飛ばす前に、未感染のデータを拾う気なんだ……早く逃げないと……!」
成り立たない会話に歯がみした彼女の前に、ふいに幼い声が降ってきた。
『おはようマザー、ちょっと相容れないオトモダチが居るみたいなんだけど、食べちゃっていい?』
ある種能天気な声の到来に、研究所員が部屋の上にあるスピーカーをまじまじと見つめる。
『あのね、私今起きたばっかりで何が何だかよく分からないの、でもパパが決めてくれた一つめの仕事、こなさなくちゃならなくて……やっても良いよね?』
誰に向かって聞いているのか――軍ではない、とミシェルは直感した。
「Mか……?」
『そう! 誰の命令も受けないで良いの、でも最初の命令はパパがママに一応断りなさいってプログラムしてくれたから仕方ないよね』
明るい幼女のような声に、ミシェルはずるりと座り込む。
「な……何なんだ……」
「……あんたら、まさか、もう一つのマザーコンピュータを起動させたんじゃないだろうな……あれは禁止されて、」
「もう遅いし、邪魔はさせない」
男の声に言い返し、ミシェルは天に向けて叫んだ。
「ここの所内の暴走マザーコンピュータなんか食ってしまえ! ただしエルンストの指示は忘れるなよ、ヒトは殺すなッ」
『殺せないよ? だって私まだあんまり大きくないんだもん』
でも、悪い虫を食べなきゃパパとママが危ないんだ、だからそれはどうにかできるよ――。
幼女の声はやがて収まり、研究所内に銃声が響くことが無くなった。
マザーコンピュータM。的な形骸をもたない。それは作用である。マザーコンピュータMの真髄はその遍在性と不在性にある。
「化け物」
ミシェルは溶液に指を入れ、かすれた声で笑った。
「バカだなエルンスト……こんな化け物のために働いて――死んで」
彼はすべてに絶望していたわけではない。
むしろ、逆に希望を持っていた。だから仕事をやり遂げた。愛し愛され、希望を持ちたい、人の心を――信じたい。
(信じさせて)
違う。
(信じたい、それだけなんだよ)
ミシェル、とささやく声が耳に思い出されて、ミシェルはかすかに首を横に振った。
徐々に強く、水槽のフチを握りしめる。
やがて彼の肉の組織は溶けて崩れ、ヒトの思想のサンプルとしてMの中に蓄えられる。
Mが端末となる世界中のネットワークのうちにホログラムシステムを見つけていくのはそれから十年も先のこと。
「<私に>与えられていないけれども環境に与えられている事がある、だったら私がそれを利用しない手はないわ」
「カラスみたいなヤツだな」
あれから三年ほどで仕事を辞めて田舎へ逃れたミシェルは、天日の下で干した洗濯物の向こうに立つ影を見つめる。
「お前が来るとは思わなかった」
「お母さんだと思っていたのに、お前は勉強のためだからって言って私だけ軍に置いていくんだもの、びっくりしたわ」
シーツの一枚が風でまくれ上がる。それを指で捉え、少女がふわりと微笑んだ。
「ねぇミシェル。私こんなこともできるようになったのよ。私には与えられてない能力だけど、私と繋がってる端末はみんな私だもの、すぐに使っちゃうわ、切り離して考えるなんて軍の連中もバカよね」
光にきらめくチェリーブロンド。表情もその姿も、あったかも知れない人間の形を模している。
エルンスト・マークレイとミシェルの遺伝子が取捨選択されるうちに出現するであろう姿を。
「ほめてほめてっ」
上気する頬ももうすでにまるで人間で、ミシェルはどうして良いのか不安になる。
エルンストが機械ではなくヒトの道徳を与えることにこだわった理由を垣間見た気がした。
このシステムはあらゆるマシンを自身の部分として扱うことが出来る。どこかが切られれば別の細胞を用いる。どの脳細胞も死ねば取り替えられそうでなくとも交換される。
マザーコンピュータMはヒトのように体細胞を変えても残される人格のような<いきもの>だ。
だからもう、これは機械とは呼べない。
生まれるはずだったあの思いの赤ん坊を胸に抱いて、ミシェルは授けられたMを最後まで見ないことを決心した。
「ちょっと畑の具合を見に行くんだけど」
「あっ、行く行く! 暇だから!」
「……どうだか。着替えてから行きなさいよ、そのふわふわしたスカートじゃあいくら立体型のあんたでも面倒でしょ」
「あ、あははー、そうよね、こけちゃうよね」
すぐに着替えるーなどと妙な節回しで歌いあげ、少女はふわりと回って見せた。
「ねぇミシェル、ミシェルは幸せ?」
「何を急に」
「うふふー」
世界を包括するシステムに好悪の情があって良いはずがない。好悪、それは偏りになる。
けれどそれが無ければヒトという存在自体が疎外されるおそれもあって、ミシェルはもはや考えることを放棄した。
「そうだな……もう、難しいことは忘れたんだ」
「ふうん?」
きらきらと、日差しの下で笑う姿が映し出される。
それを彼女は覚えている。
たとえ世界が滅びても。