この地はもう、お前を愛してなどいない。
それでも私はこの地に残る。
Bleibe(ブライベ)
ol.ne.jp/hiyon" target="_top">せらひかり Hikari Sera. All rights reserved.



   Bleibe(ブライベ)   

27−3

3*ウルトラトラップ
   *
 再び砂から森への継ぎ目を跨ぐ。あり得ない構図だが平然と森がそこにある以上、地下に何らかの形で水脈が残されていると考えるのが妥当だろう。それがまともか否かは別として。
 足にからみつこうとする厄介な多年植物を蹴り払い、一宇はひたすら前に続く。
(ていうかみんな速いし!! 何でそんな速くても息が上がらないんだろう!?)
 汗が頬を伝ううちにべたりと冷える。
 一宇は一向に変わらない闇に沈む緑を見つめた。
 見る間にあく距離に、真後ろの軍人が軽く背を押す。彼らのほうが装備が重いのに気遣われ、一宇は慌てて速度を上げた。

 ずっと同じ景色が続くと、ただでさえ心身の疲労が強い場だというのに、さらに脳が疲れて幻覚を見る。
 だからそのとき、真っ赤な模様が近くの枝を横切ったことも、あまり意識にのぼらなかった。
「(え!?)」
 数瞬遅れて一宇は足をとめそうになり、我に返ると列の動きに倍速で戻った。息切れする体を叱咤しながら、しかししかしと脳が言う。
 ――アレは何だか、鳥影に似ていた。
 しかし成人男性二、三人分はあろうかという幅と高さを備えた鳥は、ダチョウでもありえそうにない(この付近のデータではダチョウも居ない)。
「いくら何でもでかすぎる……」
 呟いた一宇の声に、全員の動きが止まった。
「あッすいませ……ッ!」
「あれはな、メロコスパラスという、巨大鶏の仲間だ」
 随分と前方に居た大佐が、明後日の方を向いて言った。
「は!? 何ですかそれ!? っていうか俺そんな具体的な特徴口にしましたっけ!?」
「鶏らしくこっけいな踊りを踊る」
 他の者は皆、真顔のままである。
「しかしな、残念ながらそれらは既に絶滅してしまっているのだよ」
 大佐は至極重々しげに宣言した。その間に、軍人たちは音もなく方向を決めて静止する。
「今はおもに、メロコスパラスを信仰しそれに擬態して行動する民の姿を指して言う」
「え、」
 どうやら他の者たちは既にこの手の話は聞き飽きているらしい。彼らは一斉に葉陰から飛び出してきたメロコスパラス――赤や黒で紋様の描かれた白布たちを撃ち始めた。同時に、布影の連中から逃れるように走り出す。
「ハハハ、一宇はバカだなー」
「すいませんすいませんすいませんすいません!」
 隊の存在を気付かれたことと隊をとめて説明させたことについて謝る一宇に、十メートル先を駆けていく大佐がけらけらと笑う。
「さっき本気で怯えた顔してたなァお前。でかい鶏ならどうやって食うか考えるンだとてっきり思ってたんだがなァ」
「だって怖いし!」
 鶏は気性が荒い。幼い頃に卵を取りにいった鶏小屋の中で頭をつつき回された覚えがある一宇が、桁違いの大きさの鶏と聞いて怯えたのも無理からぬことではあった。

 夜陰に紛れて進むこと数分。
 体がばらばらになりそうだった一宇は全体が急に速度を落としたので前のめりに傾きながら歩をゆるめた。
 ばしゃん、と一際高く、水たまりの汚水を跳ね上げて驚愕する。
 気付かなかった。

『大佐!』
 戦場で聞く女性の悲鳴は、やけに脳に鮮明に響いた。
「ミッシェルか」
 インカムを耳から離したそうにしながらランゼルが答える。
『大佐、大変なんです!』
「大変じゃなきゃ連絡してくんな」
『あぁッもう!!』
 がちゃがちゃした夾雑音が混じり、皆が耳を澄ませたとき。
『第六分隊やられましたッ! 一分隊を送り出してスグです』
「負傷者は」
 聞いたのは佐倉少佐だ。落ち着いた声に、ミッシェルの悲鳴も幾分和らぐ。
『う、内田情報局員、クラウス審議官、サノン二等兵、それから』
『一時攻撃です! 敵機は現在旋回し、我々より北西の第三分隊側へ』
「――内田、元気じゃないか」
 ミッシェルに被さるように叫んだ声に、大佐がぼそりと感想を述べた。
 通信機を奪い合いながらだろう、ミッシェルの声が近くなり遠くなりして答えを返す。
『右肩を撃たれてるんですよッ! 早く医務班ッ』
『いい! こっちよりラファエルを』
「ラファエルも負傷か?」
 後方支援用に基地付近に置いてきた分隊の中に情報局局員を入れたのは失敗だったか、と舌打ちして、ランゼルが他の戦況を問いかける。第二十五部隊以外の隊も動いてはいるのだが、そちらはおおよそ、足の引っ張り合いのために展開されている。
『殆どひどい混戦ばかりで! 情報が入ってこないんです!』
「――参ったな、ルノーは?」
『第七部隊は現在玉座付近で戦闘中です、地下に降りる方法が見つからないらしくって、“抜け駆け”してきた連中を片っ端から叩いてるけど一向に数が減らないそうです』
 不参加の人間まで“宝探し”に参戦しているらしい。
「こっちもあと四半刻で着く」
『分かりました、それまで何とかもたせます……!』
 ミッシェルが言い終えて、通信機を離れる寸前に、ご無事で、と呟いた。

『で、今の会話一応上位回線使ってる俺も聞いてたんですけど』
 どことなくのどかそうに、そう割り込んだ声は九条才貴。
『俺は予定通りの配置で良いんですかね』
「あァ……お前はどっか行ってろ、さもなくばさっきミッシェルに言った時間で間に合わせろ、飛んでろ!!」
 低くかすれた声で言われ、九条も長々とは喋らない。
『りょーかいっ』
 肩をすくめる様が目に浮かぶようだ。
 懐かしさに、何とはなしに一宇は基地に帰ったら林檎のコンポートを作ろうと思った。
 ミント添えで。
   *
 森から砂上へ、砂上から森へ。
 まるで尺取り虫のように律儀に正確に、彼らは黙々と前進した。

 砂の上を進み始めるのには時間を要した。
 トラップの跡が砂で流され、また敵に潜られていれば姿が見えない。
 砂漠から丸見えの状況で砂上に出るのだ、大佐が二、三人を少し切り離して先遣隊とする。ある意味のイケニエで、もしあればの話だが、トラップを発動させるための生き餌にも近い。
 手の汗で抱えていた銃器が滑る。額から流れる汗をおさえるための布が、既に濡れて重たくなっていた。
 ほとんど五十メートル走と変わらぬ速度で走ったかと思えば、カタツムリのように遅々として進まない。それを繰り返して森を出たように、砂の上も進んでいく。ただし隠れるための陰がないため、速度は幾分速まった。
「来ます」
 佐倉が冷静にインカムに呟く。
 同時、上空から九条が前方へ爆撃を開始した。
 過去に都市があった場所、以前一宇がレジスタンス・ローズに捕獲された場所。
 そこはまるで聖地のように、砂の中に半ば埋もれながら風に吹かれていた。

「ない、だぁ!?」
 ランゼルの怒声に、瞬間だけ首をすくめ、第七部隊大佐ルノー=モトベが怒鳴り返した。
「怒鳴るな! 知るかってんだこのバカ!」
「ンだとボケナス!」
「うるせえこのタコ!」
「あのう……喧嘩してる場合じゃな、」
「分かってる」
 同時に言われ、一宇はやはり止めになど入らねば良かったなと後悔する。
 二人の大佐がぎゃんぎゃんと騒いでいたのは、何も機嫌の所為ばかりではない。背にした古い城壁を削りながら、明らかに銃弾が飛び交っていた。
 うるさすぎて互いの声が聞き取りづらく、ガタイの良い男二人でつかみ合うようにして怒鳴る姿は仕方がないとはいえ鬼気迫る物があった。
「大佐、怯えてます」
 佐倉少佐がぽつりと言って、インカムからの指示を聞き取ろうと目を細める。ランゼルが振り返り、薄闇に鋭い目を向けた。
「あァん? 誰がだ」
「そりゃあそこの坊主ぐれえだろ俺の部隊にゃ腰抜けはいやしねえよ」
「何だとコラ」
 ルノー大佐の襟元を掴んで下に引き、ランゼルは不意に興味を失って離れる。
「ないならさっさと動かなきゃならんな、どうする?」
「俺たちもこれ以上無駄に弾も人員も消費したかねえぜ、さっさと決めてくれや」
 ルノーを無視し、ランゼルはじっと空を見ている。
「……森、か」
 佐倉がふと声を拾い、それを自らの声帯に託す。
「森です、」
「何キロだ」
「南南西、――どうやらあの人は自軍まで騙すつもりだったようですね、五キロ地点」
「アーリーか」
 舌打ちし、どうせ時間稼ぎだろ、とランゼルは続ける。
「どうせ引っかき回されるデータなら、ただでさえイタイ腹なんだし仕方ないから探られないように先に出しちゃったぞッてのがパフォーマンスで、本当は大事なことはひとっつも明かしちゃいないと。そういうことかあの野郎」
 それだけのことで何人が死んだ?
「最終的に平和が得られりゃそれで良いんだろ、アルフの意見じゃあ」
 ひょいと肩をすくめ、ルノーが治りきらない傷だらけの腕で銃器を持ち上げた。
「ワルイがこっちも一気に撤退、ってのはムリそうだ。囮くらいにしかなれねえな、残るぜ」
「悪いってのは何だよルノー。俺についてこようったってムリな相談だぞ、俺らは拠点決めて戦う第七部隊とは違って行動が素早いンでな」
 軽口を叩き合って、大佐同士はすぐに別れる。
「いくぞ」
 別れは、互いに軽く手を振りあうにとどまった。

「森ですね」
 佐倉は、半ば感性が麻痺したように先程から同じ調子を崩さない。
「叔父さん?」
 何となく声をかけると、一宇はものすごい勢いで振り返られて睨まれた。
「ごっ、……ごめんなさい!!」
 半泣きの少年を、数人の同行員たちがなぐさめるように見つめて頷く。負けるなよ、という暖かな眼差しを受けて、一宇は却ってブルーになった。
(あぁっ……! 俺ってすっごく場違いだよな、場違いすぎだよね!? そうだよねあああああ)
 内心の言葉でさえ徐々に気弱になっている。

「夜が明けちまったな」
 青空が、寒々しく天を彩る。
 大佐は身震いして、それから森の中の探索を開始した。

 さほど大きくはない森。しかし亜熱帯かどこかのように蔓やむき出しの根が大きくうねり、行軍の邪魔をする。
 苔むした根は踏みつけるとばきばきと音を立て、ときに容易に砕けて散った。
「おおよそ、十キロメートル四方」
 淡々と呟く佐倉の声に、軍人たちは何とはなしに緊張感もなくため息をつく。
 敵の気配がしない――というより感染者がこの森に立てこもっているという情報が未だかつてなかったために、彼らは先程までよりはずっと気楽に進んでいた。勿論油断が招く事態の恐ろしさは熟知している。それでも、もともと一気にカタをつけるか攻撃して退くのが素早い部隊であるために、長時間の緊張には不向きであった。
「あー、何か出てこねえかなあ」「やめろよ、そういうこと言うの」
 誰ともなしに話し声がしては途切れる。
 それらしい兆しがないものかと、人工物の気配を探していたランゼルも、そろそろ飽きて、カタツムリの背を目で追っていた。

「そういやさぁ、俺、聞いたんだよねぇ」「何が」
 一宇は大きな木の陰でちょっとだけ座り込んだ。しばらく立ち続けどころか走り通しで、腰から足にかけてどころか背骨のあたりもひどく軋んだ。これでは体が持ちそうにない、自己判断だが休息を取る。いざというとき足手まといにならないために、今は少しでも神経を休めたいという思いもあった。

「さっきの大佐のさぁ、」「あァあれー」「おい、ヤメロよ」
 夜露に濡れた葉を持ち上げては裏返し、土をかいてはまた進みながら、軍人の誰かが呟いている。
「ああいうの、マジでここらへん、いたらしいぜ」「やーめーろっつの」
「鶏じゃなくって、ホラ、伝説の、何だっけ、蛇?」「トカゲ?」「ワニ?」「うわーしゃれになんねえ!」
 最後のセリフを吐いた者が身震いして一宇の側を通り過ぎていった。軽く肩を叩かれ、生存を確認されたと気付いて一宇はわずかに笑みを返す。
「そうそう。何だっけな、帝国の作った兵器のさ、生殖機能のないやつら」
「あー、ロン?」
「そうそれ、ああいうのが市井で生き残ってて結構狩られてたって。そいつらが森に逃げ込んでるとか何とか。ほんとかなぁ」
「環境悪くても平気らしいしな」
「待てよ、おかしいじゃないか、帝国が崩壊して何年経つって言うんだよ」
 沈黙。
「おいお前ら、口じゃなく手ェ動かせと言いたいのは山々だがな、どうももう一つ向こうッ側の森らしいんだな、ウチの優秀な局員どもが死力を集めて解析したところによると今度はわりと正確らしい」
 どこからともなく飄々とした声が聞こえ、こわばった連中がそそくさと移動し始めた。一宇は腰をあげかけて、真後ろの木の陰から大佐がひょいと出てくるのにひょえと声をあげた。
「っかー、お前バカ? 間抜け? もしかして女と寝るときもそんな?」
「バカとか失礼なこと言わないでくださいよー! それにセクハラじゃないですかそれー!!」
「冗談だよ」
「すぐ真顔に戻らないでくださいよっ」
 真顔のまま、大佐の視線が中空を向く。
「大佐?」
 彼の指先が黙ったままの唇の上に一瞬だけ乗った。――黙れ、ということは、すなわち。

 銃声。
「来いッ! マーラとサガノは後方の人間数えろ!」
 唐突に駆けだしたランゼルを追って、一宇は足が砕けそうに痛むのも構わず走り出す。
 すぐさま合流した佐倉少佐が、走りながら恬淡と攻撃方向を報告した。
「おそらく森に拠点を持つ者であって、我々を追ってここまで来た者ではないかと」
「そうか」
 ばらばらと、どこからともなく現れた部隊の隊員たちが集まってくる。一宇は、走りながらそれらに当てずに刺繍の多い民族衣装をまとった連中にだけ弾を当てる技術に恐れ入った。軍人たちは異様に目がいい、それは初めに前線基地に配属されたときに気が付いていた。夜間でも、星明かり一つで何時間も方向を間違わずに行軍することもあるのだ。その勘とセンスには恐るべきものがあった。
「面倒くさい……」
 ポケットをまさぐった大佐が、マジックペンで黒々と「俺の」と書いた煙草の紙ケースを掴みだした。
 この非常時に何をしているのかと呆れるのと同時に、「俺の」の俺が誰なのかを書いておくべきではないのかと一宇は疑問視する。
「大佐、息が切れますよ」
 佐倉が下に張った枝を蹴り上げて後方に仕掛けられた爆弾を爆発させた。
「わーってる」
 前によろめきながら駆け続ける一群を肩越しに振り返り、浮田=ランゼル大佐はぶん、と気軽に振りかぶった。
「おー、飛んだー」
「あッあれは!!」「大佐のバカー!!」
 隊の後ろに何とか合流してきたマーラ及びサガノは、叫びながらそれを避けた。悲鳴をあげそうな歯を食いしばり、一刻も早くそこから遠ざかろうとスピードを上げる。

「水に濡れるとどかんと一発」
 両耳を塞いだ大佐が上体をかがめながら枝葉を避けた。後ろに気を取られた一宇は上からしだれていた枝に顔面をぶつけ、しかし後ろから来ていた誰かに脇腹からすくい上げられて抱え込まれたままその場を遠ざかった。
「は、何ですか今の」
「液体火薬の一番イヤで面倒なヤツ」
 一宇を抱えた男の肩に、もう一人誰かが目を回している。小柄で服に着られているといった印象が強い。その服が血だらけで、怪我をしているのかとぎょっとしたが、
「お腹減ったー誰か食べたいー」
 と、異様に不穏なことを口走ったのでさすがに一宇もそれがすべて返り血だと気付いた。左腕に巻かれた緑の布は、後方支援組のものだ。
 見上げれば、自分を抱えている男は二メートルを優に超える身長と岩盤でできているような厚い胸板の男だった。しかしハードル走でもやっているかのようにするすると森の中を進んでいく。その速さに一宇は感嘆した。
「すーげージェットコースターみてー」
 ジェットコースター自体には乗ったことはないのだが、郊外には遊園地がありそこに存在しているらしい。ジェットコースターと殆ど同じような体験が出来る九条の機体に乗ったばかりの一宇は、あんなものは二度と体験したくないと実感していたが、場合によってはちょっと面白いかもしれないなと思った。
「あひゃひゃひゃひゃ腹減りすぎて頭イテーむかつくー!」
 肩の上の人物がそう言って、腰にさげていたケースからネジのようなものを取り出した。
「たーいさー百五十メートルずれましたオッケー!?」
「よく分からんがオッケー」
 遠くから大佐らしき気楽な声が返ってくる。この緊張感の無さは何だと一宇は思ったが、既に自力で走らず変なことを考えている自分自身が一番緊張感がないのかもしれない。
「ひょーれ」
 そーれ、とかけ声をかけたかったのだろうが、鶏ガラのような腕をあげて少年がネジを巻いた。
「え? 鳥?」
 それは、バードコールとも呼ばれる、鳥の鳴き声を模したものだ。
「え、これえ? そうだよー」
 少年が笑って、ゴーグル越しにその目を細めた。
「超音波による起爆装置」
「へ?」
「頭を下げて!」
 大男が叫び、少年が一拍遅れて後頭部を強打した。ゴーグルが外せず涙をぬぐうことも出来ない。
「ちくしょう、餓鬼に構い過ぎたぜ」
「三十過ぎた男がちんたらしてんじゃねえぞお前らー」
 ぼそりと言った少年に向けてか、砂上を綺麗に体をひねって転がった大佐が声を張り上げた。
「おかげで俺様が一番最初に森を抜けてしまったじゃないかこの腰抜け! 腑抜け!!」
「だって大佐まだ四捨五入しなきゃ三十じゃないし」
「俺たちそんなに体力ないし」
 後に続く軍人たちが、それぞれに文句を言いながら探知機と銃器を砂に向けた。
 先遣隊の意味もない大佐の行動に、やや遅れて到着した佐倉少佐が苦言を呈す。
「くだらないことで喧嘩してるし。そこらへん一帯が地雷原だって、何で最初に気付かないんですか」
「くだらないってなんだコラ」
「当たらなかったから良いようなものの……よくそんなにはじけて転がっていけますね大佐」
「あってめえ今マジで鼻で笑ったな!? 笑ったろう!?」
 佐倉は一瞬表情を落とし、ふっと笑んだ。
「回収しろ」
 無言で、本来先遣隊であったはずのメンバーが砂漠に駆ける。すっかり夜の明けた空に、うすく月のような雲がかかっていた。
 ぶつぶつ言っていたランゼルだが、さすがに隣を走っていた者に負けまいと頑張りすぎて勢いを止め損ねたとは口に出来ない。そのままあぐらをかいて、周囲の砂を睨み付けた。
「おそらく、研究所に向かう途中の者を引っかけるために新しく埋められたんでしょうね。やり口が浅すぎる」
 難なく大佐のところまでの道筋を読んだ男が、手招きして全員を渡らせる。
 大佐を回収して(もっとも佐倉の「回収」は地雷撤去の意味があったが)生き残っている人員だけで砂を渡り、斜め左前方にある黒々とした森に駆け込んだ。
「あぁ……月が出ている」
 誰がいうともなしに呟き、信仰を持つ者のいずれかが小さく小さく祈りの言葉を口ずさんだ。

 それが弾丸だと、初めは気が付かなかった。
 一宇はばらばらとはじける音が雨音だと信じて疑わず、だから彼を降ろしてくれた男に礼を告げた途端周囲が血の海に染まってもしばらく呆然と立ちすくんでいた。
「バッカ! 走れッ」
 殴りつけるような声で我に返り走り出す。第一撃目は壁となる者がいて被弾を免れたが、次はそうはいかない。向こうが替えのマガジンにかえるまでの、どうしても欠かせないわずかな時間。それを使ってくもの子を散らすように軍人たちが森に消える。
 まるで統率のない群れだが、先程のようにいつの間にか集まるから不思議なことだ。
 ただ、さっきまでとは違って、もう一宇が転んでも抱えて走ってくれそうな者は居ない。
「くっそ……待ち伏せかよッ」
 触れたら折れそうな枯れ枝の腕を振って、少年が茂みを駆け抜けた。それに続いた一宇は、彼を容易に追い越してしまう。
「あー、良いいい、俺のことは気にするな、先に行け」
 気にして振り返る一宇に、彼は軽く手を振った。
「邪魔だし。万が一俺が被弾したらお前もタダじゃ済まないしな。生きて掴まる気もねェしそれぐらいなら全弾使ってやつらにゃ一発たりとも渡しゃしねえさ、気にすんな」
「は!? えッどういうことですか」
「あァ俺? 人間弾薬庫。知らねえ?」
 がん、と斜め上の枝が落ちた。折れた先が黒焦げて腐ったような音を立てる。
 まだ確実に、後方から追いかけられているらしい。一宇は逃げ切れるかと一抹の不安を抱き、すぐにそれをうち消した。一宇から一メートルほどの距離をおいて少年がバラバラと黒い粉をばらまき始めた。まきながら走っているのでどうしても不注意になりやすいが、それを持ち前のだろう、子犬のようにせわしなく跳ねて蔓や滑りやすい下草を避けていく。
「お前知らねえのか、だったら物騒だな。あ、お前、あの男が死んでショックか? だろうなァバカ面してんだもんな、でも今足砕けさせてどうすんだ?」
 斜め後ろ、きょとんとしたようにも見える目が、ゴーグルの奥で不敵に笑う。闇色の防弾グラスに遮られて本来の色彩は分からなかったが、一宇はそれでも怖いと思った。自分の胸元までもない少年、憂乃と殆ど変わらない身長の彼は、ひどく老成した様子で吐き捨てるように笑った。
「甘ったれてンじゃねェよ。世の中にゃあゲームで人殺しできると思ってるヤツも居るんだ、だったら不公平だろうが、こっちばっかり痛がってるンじゃねェよ」
 舌を噛まないように食いしばりながら駆けている一宇に前を向くように告げ、彼はさらに速度を上げた。
「でも……ッ俺はあの人に助けられたのに何も思わないだなんて出来な……っ」
「バカだねお前。だから帰ってから悼むんじゃないか。今悲しんだところで数秒後にあの世で会うかもしれねえんだぜ? 行ってからざけんなバカとか言われてみろ、屈辱だぞ」
 ところで――ライターは? と聞かれ、一宇は慌てるあまり、液体火薬の入った小瓶を胸ポケットから転がり落とした。
「……今のさァ……もしかしなくてもアレだよな、保管が面倒すぎてあんま役に立たないってンで有名な、水で発火するヤツ」
 無言で頷いたが通じたかどうかよく分からない。一宇は手足がちぎれそうになっても景色が一向に後ろへ遠ざからないことに苛立った。
「こンの……大ボケがあああああああぁ!!」
 少年が叫んで茂みにダイブするのと爆風に背を押されるのとどちらが先か。
 背が焼けるように痛んだが手で触れた部分には損傷はない。単に打ち付けた所為であるらしく、一宇はホッと息をついた。しかしすぐに立ち上がる。炎はほんの数メートル先にまで迫っていた。
「ちょっと……ッ、さっきの、バードコールの人!! 居ますか!?」
 名前を知らないので適当に呼ぶと返答がある。随分先の方を殆ど四つ足の体勢で走っている影を見つけて、一宇は慌てて駆けだした。
 こんなことでいいのだろうかと思い、スラップスティックコメディのように幕が下りればすべてが元通りになっていればいいのにと連想して胸の中心が締め付けるように痛んだ。まるでキリを差し込まれたように。

 何の嗅覚がついているのだろうかと不審なほど、「バードコールの人」は迷わずに道無き道を辿った。
「おう餓鬼、こっちだぞ、ちなみに俺様のことはバードもしくはバーディと呼べ、様はオプションで付けることを許す」
 先程の大佐のような威張りように苦笑して、一宇は茂みから這いだした。ジャケットどころかむき出しになっていた顔や手にも枝などによってかき傷が出来ている。他の外傷と言えばヒルによるものくらいだ。親指ほどの太さの、粘液を出して皮膚を溶かし張り付いてくる異物。ヒルにつかれたときは、バードが帽子の中から出したライターの火によってあぶられるまでは頭の中だけで静かにパニックを起こしていた。乾いた風ばかりの地帯に住んでいたから、前線基地に配置されるまでは砂の中にある湿地という異様な場所には来たことがなかった。勿論士官学校の演習で森に入ったことはあったが、そこで見かけるヒルは水の多いところに多く、真上からぼたりと落ちてくるようなものではなかった。そういえばライターを自分で持っているのではないかとバードに言うと、彼はいたずら者のように笑って、走りながら帽子の下に手を突っ込んでたらバランスが崩れると言い放った。
 ただ、生き延びてここに在る。息を整えて、少しでも体の求める休息を与えられるように立ち位置を変えた。

 随分と静まりかえった森の中で、日光がかすかな一条を苔の上に投げかける。

 鮮血が流れ、辺りの清浄さに生臭い気配を漂わせていた。
 何だろうかと眉をひそめると、茂みに誰かが倒れ込む。

「おい、」
 初め、一宇は、それが誰なのか分からなかった。
 影の中、浮田=ランゼルが口を開く。
「誰か、」
 息を殺したように、あれだけの距離を走り抜いたにしては全員が無音だ。
 静まりかえった世界の中に、来し方より流れ来た風が燻煙の匂いを漂わす。

 大佐が、揺らぎを微塵も感じさせない声で言う。
「おい、誰か楽にしてやれ」
 まるで盆にこぼした水のような目で男はこちらをゆるゆると見上げた。茂みはもう、どす黒く染まり、血の暖かさなど微塵も感じられない。

「腕がちぎれたくらいで、そんな」
 囁き声は睨まれて消えた。
 一宇は自分の声を激しく呪った。たかがそれくらいのことでも、そう、『足手まといになるのならば』始末しなければならないのだ。
 一打で死ぬことの無いような中途半端な傷跡は、『運が良ければ』一週間ほどもかけてウジを湧かせながら『生きる』ことが出来る。しかしそれを幸福だと思うだろうか。
 敗残兵に踏みつけられ、動物に肉をかみちぎられ、夜は虫の音が近づくことにむしろ怯え、身体中をはいずりまわる異物の感覚にもがき苦しまねばならない。
 そしてそれでも死ぬことは出来ないで。
 既に赤痢に似た症状も出ており、その男が行動を共にすることはもはやできそうにもなかった。
 医療設備があったところで、すでに足の指まで壊死が始まっており助かるかどうかひどくあやしい。
 大佐はみじかくため息をこぼすと、自ら短銃の引き金をひいた。
「すまなかったな」
 一言だけ残して、大佐は銃を仕舞う。慌てて数名が男の遺体にたかっていき、未だ使える銃器と未使用の弾丸を回収した。使えるものは残さない、すべて彼らが生き延びるためだ。
 やがて、今の銃声が確実に敵兵に悟られただろうことを理解した上で、かの一行は進路を北寄りに変更した。ひどく静かな行軍だった。
「あーやだやだ……湿っぽいのはキライだよ」
 バードが言って、いつの間にか血だらけのドッグタグを拾っている。
 それらが幾つも列をなして、彼の首にぶら下がっていた。
「あぁこれェ? とりあえず拾えるもんは拾うタチなの、俺。これだって金属で出来てるし、いざってぇときに使えないこともないからねぇ」
 一宇の視線に答え、彼はついでに死者からくすねてきた数個のビスをズボンのポケットにしまった。
「勿体ないっしょ、」
「……じゃ、ないんですね」
「はん?」
 少年にも見える彼がずっと年長だと――一宇はもう気付いている。
「タグ、持って帰って遺族に渡すんじゃ、ないんですね」
「あー、俺が無事に帰ったら返してるけど。結構、そのご遺族とやらも死んでることが多いからなァ」
 死んだことを知らせないのと、知らせることと。
 どちらも残酷さ、と無関係なように彼が笑った。
「分かってるだろ若造。さっき大佐が一発で仕留めたのは慈悲なんだよ、俺たちが惨めに騒ぎ立てないように。生き残る可能性はあの状態じゃあ考えねえンだ、利用されるのがオチだからな」

 味方がもはや息絶えるばかりの場合、そしてそれまでの時間が長いと判断された場合に限り、彼らは口封じの意味もあって彼を殺す。
 そのとき、彼らは一発しか撃たない。
 銃弾は無尽蔵にあるわけではないのだ。
 それこそ死に行く者のためだけに、生者の安寧が破られて良いはずもない。
 だから正確な一撃で仕留められた仲間は、ある意味では幸福と言えた。
 普通ならばケガ人は捨てる。わざわざ戻って楽になどしてやらない。手榴弾でさえ自決用に持たせているわけではないと言って奪い取る。
 すべては生者が生き延びるためにあるのだから。

「もう、何がなんだか……」
 ぼやくようにこぼれ落ちた言葉に、少佐が振り返ったが物言わぬまま前を向いた。
   *
 日が暮れる。この世で最初で最後の夕日が、黄昏を経て沈んでいく。
 それが明日ものぼることを、彼らは信じて疑わない。
 疑うことが無意味だから。意味があるとしても、それはただ、感傷しか引き起こさない。
 銃を手に生きる時点で、日が沈むときのリスクとリターン、夜が明けるときの行動パターンの類比と理解のほうが重要となる。

「夜討ち朝駆けとはよく言ったもんだ」
 ランゼルは掘り返した土の中でそうぼやいた。
 夜陰に紛れて影に沈めば、気付かれるまでの時間が稼げる。少なくとも、昼間よりはあからさまに見えはしない。
「おい、今度こそここだろうなァ……」
 うんざりとした言葉に、内田がひたすら平身低頭する声が聞こえる。
『間違いないはずです……!』
「なら良いンだけどよぉ……」
 そこでふっとため息をつき、ランゼルは大佐らしく全員に指示した。
「じゃ、行ってくら。適当に布陣しいてガンバレ。粘れ、ぎりぎりまで粘れよ、バレんなよ」
「イェッサー、お気を付けてー」
 ばらばらと森に紛れていく軍人の中に、あのバードも居た。
「お前も行くンだろ、中」
 すれ違いざまにそう言われ、一宇は慌てて頷いた。向こうでは、大佐が土の中にあった人工の岩盤に掘られたナンバーを読み上げている。
「ハイ、多分」
「なんだそりゃ」
 ぽんと一宇の腕をはたき、バードはまたなと口にした。とてもさりげなく当たり前で、しかしもっとも難しいことだった。
「はい、また後でっ」
 返して大佐のもとまで駆けていく少年のことを目を丸くして見送った後、バードは、ふっと笑みを含んだ。
「……そうだな、できればな」
 研究所の位置を示すプレートに従い、彼らは再び点々と散りながら移動を始めた。
   *
「死ねえええェッ!」
「冗談じゃない、こちとら家族だの色々守るものがあるんでね」
 口の端だけを歪めて大佐が引き金を引く。
 飛びかかってきた人間の目は包帯のようなものでふさがれていたが、それでも動きは鈍くない。
「ここは自分が……ッ!」
 佐倉少佐が前に出て大佐を行かせる。
「早くしろ!」
 一宇を睨んで叫び、彼はまだ自由には動かせない右腕で銃を取った。相手はサバイバルナイフ一本きり、それでも銃で押し合ったまま佐倉は身動きがとれない。
「迷うな、来いッ」
 大佐の後ろ姿が見る間に遠ざかる。一宇は叔父の無事を祈りながら先を急いだ。

 一人欠け二人欠けして、あちこちから聞こえてくる銃声や悲鳴が誰のものかと考えるとぞっとした。
「行け!」
 大佐が替えのマガジンを掴んでそう叫ぶ。指示を受け、一宇は何年も強い日差しにさらされて脆くなった岩を数歩で飛び越え、広い赤茶の岩盤に立った。腰にある物入れから震える指で布に包んで保護していた煙草ケースに似たものを取り出した。
「大丈夫だ、」
 周りを固めてくれた数人が、こわばった一宇の表情に対して力強く頷いてくれる。
 ――大丈夫、でなければ困るのだ。
 一宇は身震いして赤茶色の岩陰に接続コードを伸ばして繋いだ。外気にさらされた得体の知れない拳大の銀盤からドライバーでこじ開けるようにしてカバーを外すと、幸い中には、ゴミや埃で目が詰まってはいない多くの大小の細かな穴が開いていた。そこに繋いだ機械が、『向こう』からのデータを読み込む。
 ――Mの機密データでは、旧式のデルタ法とカクラース法が同時的に用いられています。
 それが何だったか覚えがなかったが、一宇は、つまり研究所はこうしてデータで開くものと物理的な錠前とが併用されていることは理解できた。内田の声が、普段よりいくぶんしっかりして聞こえた、そのことまでも思い出す。
(左目の網膜認証時にチップの内容から介入を許可する指令のほうが、普通に突破するために偽造してシステムを騙すよりはやく済む、んだっけ)
 でも、どうせなら誰か情報専門の局員と、自分、二人くらいセットにして送り込んでほしかった。焦る手で指定されたキーを打ち込み、一宇は認証システムが動作していくさまを息を詰めて見守る。
 もし自分が手順を間違えば――そういうことは考えない。なるべくならすべて、成功する方向でイメージしておきたかった。
「何をやってる、まだか」
 ランゼルが少し遅れて地点に到着する。使い切ったマガジンを投げやって、彼はしきりに後方を気にした。
「すいません」
「謝るな、練習したンだからその通りならできるだろ、後三十五秒!」

 これは、何度も練習した手順。
 外部戦闘の前には必ず演習を行う――腐っても軍だから、いくら法規や統率が乱れていようと、ただの自警団と見なされようと、彼らは常に歩数や手順、位置などを擬似的に計算されて作られた場所での練習を欠かさない。
 一宇もまた、何度も閉鎖空間や外部で、この手順を練習した。
 ――大丈夫。
 情報管理のプロである情報局局員は、殆ど全員、それぞれの戦局に対応していて手が余らない。しかも常ならぬ事態――マザーコンピュータMの始動に関わり、かつてない量の情報にさいなまれている。一人くらい補佐にほしかったが、出入り口ではなく数キロメートル離れた場所に数名のチームが待っているだけだ。そして彼らは、一宇が扉をあけたとき、その回線を受け継いで処理してくれる手はずである。
 ――俺が持ってる『目』が必要なんだったら。
 きっと、開く。
(動いてくれ……!)
 黒いコードがまるで有機物のように壁面を這う。じりじりと汗が赤錆びた景色の中に落ちた。一宇は託されていた認証コードの配列をメモリ内から片っ端から吐き出させる。
(動いた!)
 びくりとした一宇に反応し、ランゼルがこちらを見る。しかし一宇は何かを返すどころではない。
 網膜のチェックデータを求められ、一宇は持っているモバイルを使おうとして、右端の岩がかすかに崩れるのを目撃した。
「動きます! ちょっとすいませんっ」
 周りの軍人を押しのけて、這うように身をかがめて一宇は端に移動した。
「あっ、た……!」
 小さな穴。ざらついた岩に指をかけ、一宇は左目でそこをのぞき込んだ。そうまでしなくとも良いような気がしたが、確実性を期したかった。
 どうやら確認はとれたらしい、手にしてコードを引きずってきた機械の画面に『仮許可a1817E6AWB』という文字が配列される。穴の中で耳慣れぬ金属音のかすかすという響きがして、穴が塞がり、一宇は再び元の場所に戻った。
「開くか?」
 大佐のひりついた視線を背でうけて、一宇は頷いて――しかし一瞬の後に心臓が冷える。
 声紋判定?

「ど、どうしましょう大佐……!」
 声紋データを求められた。これはラファエルらの出した起こりうるチェックの可能性には入っていない。あり得ない話ではなかったが、網膜判定を行なうのであればそれ単体で済ませてくれるはずだと誤認していた。
 縋るような眼差しに迷ったランゼルは、うろたえるように数度息を吸って吐き、一言、言った。
「ひらけごまでもなんでも良いから、どうにかしろ……!」
「そんな無茶な! 大体これ、声紋なんですよ!? 呪文じゃないんですよ!?」
「呪文とか言うか普通。暗号と呼べ」
「あ、暗号?」

 voiceprintもしくはvocal printのアナグラムは?

「ダメだー思いつかないー!」
「ダメとか言うなバカ! 志気が下がる!」
 一宇の後ろ頭をはたき、ランゼルは大佐らしくふんぞり返った。
「考えろ、何のためにお前を連れてきたと思ってるんだ! そんな腰抜けに姪はやらんぞ!」
「何でそこで大尉が出てくるんですかー!?」
 半泣きの一宇に、大佐は更に重ねて言う。
「成功したらものすごく見直される、かもしれないな、英雄だな、そうかもしれないなー」
「あぁっ大佐それで良いんですか!? よくわかんないけどッ」
「ところで一宇、声紋って何だ?」
「音声を周波数分析によって縞模様の図表に表したもの。指紋とともに犯罪捜査に利用……って大佐後ろっ!!」
 この場の誰もがこの『問題』の抜けかたを思いつかないうちに、到底味方とは思えないような追っ手や潜んでいたものらがばらばらと集まり始める。抜け駆けを許すまいと放られた手榴弾が的はずれの位置で爆発し、しかしそれが頭上を通過して反対側へ飛んでいった故のことだと気付いて一宇は恐れる。
 これは本当にまずい。
 先日レジスタンスローズに捕まったときの恐怖が胃の辺りから這い上ってきた。
「壊せないからな、言っておくが旧帝国の使ってた合金だかなんだかは、今の鉄やらじゃあ容易に傷つけられないンだ。俺が若い頃そうだった」
「若いって……今だって、半世紀も生きてないじゃないですか」
 若造はお互い様だ。
 ランゼルはうっそりと笑った。ひさびさにその笑みを見たような気がした。
「いいねェ……息切れしないうちに家族孝行しときたいもんだ、定年したら妻子にまともに相手して貰えないなんて衝撃的だろ?」
「何がですかーもう!」
 叫んだ途端、立っていた岩場が大きく崩れた。
「何だ!?」

 ふと、一宇が目を落とすと、手持ちの画面に、
 『仮許可a1817E6AWB、声紋及び身体的特徴の入力終了』
 という文字が一瞬並んで、あとは一転して屋内図が表示された。しばしの間、大佐と候補生は口を閉ざした。
「……声紋認証っていうよりは、むしろ、……俺が『誰』か覚えただけ?」
 呟いた一宇がイヤな予感にびくりとして振り返ると、大佐が冷たい笑みでこちらを見ていた。
「時間を無駄にするな! このっ」
 大佐がひと飛びで岩場に開いた穴に続く階段に飛び移る。それを追い、コードを引き抜いて一宇も走った。
「だってこれっどのみち読み込みまで二十五秒以上かかってるんですよ!? だってちょうど今開いたじゃないですかっ俺の所為じゃないですよ機械のせいですよっ処理能力は研究所の所為でっ」
「言い訳は後だ! 後方から敵が来ないわけじゃないんだからな! もって三十分、それが限界だ! 探せ!!」

 そこは、異様なほどの白い廊下と扉の世界。
 つもった埃と黴臭さを除き、人気があればいくらでも病院に見えるだろう景色だった。
 階段付近で陣を組んだ味方の軍人たちが、内部の様子に顔をしかめた。
「……なんで何十年も、こんなふうに残ってるんだ?」
 声は無意味に反響し、残響音に外部からの攻撃音が混じった。

| MENU |
・著作権がありますので、このサイトにある全ての文章、画像などの無断転載・複製などご容赦下さい。詳細については本体サイトに準じます。Copyright(c)せらひかり Hikari Sera. All rights reserved.Never reproduce or republicate without written permission.