27−5
*
地下一階に下りる階段で銃撃戦になった。ドリルで開けた横穴から外の風が押し入り、長方形に近い建物の一階部分の端から味方以外が飛び込んでくる。
「アーリーも何ッでまた今! 正式文書を出そうとするか! ったく!」
インカムに怒鳴りながら、浮田=ランゼル第二十五部隊大佐は素早く武器を交換する。機関銃の一斉掃射より慣れたライフルのほうが命中率も良く効率がいい。証拠に、狙い定めた数発で既に三人が倒れている。
廊下の角で、身を翻して息を整える。一、二、三、
「喰らってろ!」
再び銃口を向けて、折れた廊下の先に言う。
「あと三十二!」
「何がですか!?」
建物は長方形だと思われていたが、端の一階部分がコの字形に作られていた。その途中で降ろされている三つ目の防火シャッターをデータ入力で破りながら一宇は大きく声をあげる。騒音がひどすぎて聞こえない。大佐も冷たく「何がだ!」と怒鳴るばかりである。
「っつーか開かないのかソレ!」
「すいませんね!」
一宇が腰をあげると同時に巻き上げ音がして金属の壁が持ち上がった。
ランゼルはこちらに背を向けたまま銃を撃ちながら後退する。
「チッ、人手が足りない」
舌打ちと共に使用済みの金属が甲高い音を立てて床に転がった。踏まないように一宇はそれらの位置を横目で睨む。もし帰り道が行きの場合と同じであれば、電灯を消すと不利になる存在は覚えておかなければならない。明滅する明かりは奥へ進むほどに薄れていく。足下の非常灯がほの明るさを与えてはいるが、それもほんの数メートルで終わった。
途切れた闇の中に駆け込む。
先があるのか無いのかも分からない。
鼻先を何かがかすめ、一宇は悲鳴を飲み込んだ。
「これつけてろ」
「た、大佐?」
訳が分からないまま顔の前に差し出されたものを受け取ると、一宇は手触りだけでその正体に気付いた。
「……俺、そんなに足手まといですか?」
「バカ野郎、お前砂漠で片目でも動けてたじゃないか。もしキーを手に入れたらあとはあのキャラクターのノリで一気に帰れ。そのほうがうだうだされるより楽だ」
最近景気よくバカ呼ばわりをされて慣れてきた一宇は反論を飲み込む。手にはどこから持ちだされたものか包帯のようなざらついた触りの細長い布があった。
「そりゃ俺も否定はしませんよ、でもアレやってると我を忘れるって言うか」
「いいいい、別に構わない、イーサで慣れてる」
「誰ですか」
闇に反響する靴音で左右の壁との距離を把握する――以前、ほんの少しの間、片目だけで生活したときの感覚を思い出した。左目を隠さなくても、これだけ暗ければ大差ない。
意識が不意に切り替わる。
「ひゃっほう!」
飛来する白刃を避け、一宇はハイキックを決めて相手から銃器を奪い取った。嬉々としたその動作に、ランゼルが半ば呆れる。
「避けかたがノッてきたなお前。実は普段ものすごく猫被ってないか」
「そうですか〜? 多分叔父さんもそうだと思いますけど?」
一宇はナイフが彼方へ着地するのを聞きながらマシンガンを左手に構えようとして――データ管理役のためには邪魔になるので道中捨てたことを思い出す。
「ちぃッ! ざけんじゃねえよ!」
「ホントに人格変わるよなァお前」
左目につけようとしていた布を両手の平に巻き付けて振り下ろす。大佐は絞殺現場を見て肩をすくめ、すぐに自身も素手で動く。
「よく考えりゃあ向こうも弾が切れてンだ、これでおあいこだな」
向こうがナイフや肉弾戦を仕掛けてきたということは弾薬が尽きたと言うことだ。
肘と肩で肋骨を下から抉るように引っかけて吹っ飛ばし、ランゼルは将棋倒しに倒れた数名の頭と腰を順に蹴り飛ばす。
「脊椎損傷と脳障害、どっちが良い?」
微笑んだ彼の顔は照明が暗すぎてよくは見えない。一宇が投げた者が受け身を取り損ねて頭から落ち、首が直角に折れ曲がった。惨状に、生き延びた者らが息を飲む。
「おい一宇、それ、」
瞬きほどの間をぬって脇を抜けた一宇を目で追い、ランゼルは右手をさしのべかけて、やめた。
「俺の獲物――まァ良いか」
組んだ両手で頬を張られ壁に激突して沈黙した者、踏みつけにされて白目を剥いた者、既に気絶していた者も容赦なく胃液を吐いて転がされた。
ランゼルが片づけようとした者は全員一宇によって制圧された。
「あっ! すいません」
徐々に闇に目が慣れ、左目が見えていると気付いて一宇が詫びる。
「俺、どうも刷り込みされちゃったみたいで、あの、見えないと思うとこう、あの」
「いいから別に。何度も言わせるな、行くぞ」
空恐ろしい子供だなと思いつつ、口には出さないでランゼルが先を急ぐ。
未成熟な荒さが致命的だが、これだけ動ければ充分すぎるものがある。平均値しか取れていない学生も戦場でどう転ぶかは別と言うことか、と呟いて、ランゼルは足下に見えたナイフを拾った。
「さァて、とっとと帰ってメシでも食うか」
「そのナイフ綺麗ですね、ウサギ林檎作りやすそう」
「作る気か本気で」
大佐が半ば以上うんざりと言う。それに気付かず、一宇は嬉々として語った。
「九条先輩、林檎は食べられるのにミントはダメなんですよ」
「ほう」
また二、三人後ろから突撃してきたが、今回は双方ともがかわしたので床に顔面から突っ込んだ。
「それで?」
「だからコンポート作ってミント添えようと思って。大佐の分も作りますよ勿論」
「……あんまり期待せずに待ってるよ」
敵を踏むときに一瞬高く飛んで体重を使って首を折りながら大佐はうろんげに返答する。
あまり、食べ物の話はしたくない気分だった。
後方からばたばたと足音がして、数名の軍人が声をかけてくる。姿が見えるよりも先に聞こえた声に覚えがあったため、一宇も大佐も動かない。ただ短くランゼルは指示する。
「行け、お前は後ろを守ってろ。ガーターはどうした?」
「居ません」
ひそやかな声に、一宇はその者の死を感じ取る。悼む間もなくランゼルが何かを思案した。
「……まずいな、このままだと布陣が壊れる」
これでも陣が布かれていたらしいことに驚き、一宇は大きく息を飲みこんだ。
「出来れば佐倉に残ってもらいたかったンだが――あの隊があいつをなくすとガタガタだしな、後方へ下げてルノーを呼べ」
「ルノー=モトベ大佐ですか?」
一人が復唱したのは第七部隊の大佐の名前だ。一宇は頑丈そうな男のことを思い浮かべた。憂乃の上司だから覚えている、二人が並ぶと幼児と父親のように見えて身長差を聞いたことがあるが当然すさまじく怒られた。
ランゼルは頷き、「セヴェックは後方だし使えるヤツが思いつかない」と心底面倒そうにため息をついた。
「便利なんだ、あの男。多分近くにいるんだろ、」
何の根拠かそう言うと、はたして、ひそめた声にその名があった。
「上にいらっしゃいます」
「何だ、人数多いけど見たことあるなと思ったら、お前第七部隊じゃないか、どうした?」
「第七部隊は解体しました。現在全員が自主行動に切り替わっています」
「そうか」
もとから集団行動中に爆撃を受けて一人になったりと単独行動になるおそれが高いため、第七部隊は部隊を解散されても戦闘に強い面がある。組織されていなくても、自主的に経路を設計できるのだ。
「先程から自爆テロらしきものが多発しまして、戦闘機などが乗っ取られてこの付近の地上に激突してるんです、大佐らもそろそろ移動を再開するのではないかと」
「呼べないのか、残念だな」
森が焼けてしまっては、彼が得意とするゲリラ戦のようなものはやりにくくなる。森に誘い込んで仕掛けるので、森に駆け込まない敵には対処しづらい。
ルノーを一旦思考から除外して、ランゼルはじっと暗闇を見つめる。
「……おい、今何人居た?」
「はっ?」
「一宇」
「へ?」
今まで蚊帳の外だった一宇は、壁際にある電気コードを引きはがして工作をしていた。急に集中を破られて、彼はゆっくりと瞬きをする。
「……足音は、六人でしたけど」
「今動いてるのは?」
「……三人?」
途端、向こう側が開けた。
「全員下がれ!」
急激に視界を焼く華やかな明かり。廊下の奥の天上に巨大な穴がうがたれており、そこから数名が降ってきた。
「レーザー」
ぼそりと呟き、援軍となって来たはずの者が蒼白になる。
これほど頼りない援軍もない、敵は、使役する科学力が上回っている。
「そこらのレジスタンスが持つには高価すぎるな」
鼻で笑い、ランゼルが懐から銃を取りだした。
旧式の、一発ずつ弾を込める小さな銃は、しかし弱々しいが意見とは裏腹にしっかりと狙いを定める。
「うわあッ」
縦長の機械を背負って降りてきたものが心臓を打ち抜かれ、同時に機械も沈黙した。
「これでそれは使えないな」
通常の弾丸では弾かれてしまう金属だが、それ以上の硬度とかすかな粘度を持つ弾によって破壊は成された。マザコン男のお土産だと浅く笑い、彼は銃を再びしまう。一宇の目にはその銃身に、確かにロマノフスキーの紋章が見えた。第二十五部隊所属情報局局員内田とラファエルの父、マザーコンピュータMを再発見した男の出身家名だ。
「行け!」
背を押され、一宇は一瞬意味を把握し損ねる。しかし一拍遅れて心臓が跳ねた。
ゆっくりと、どの扉が本物かを選んでいる余裕がないことを思い出した。
仕掛けた罠もそこそこにして一宇は前へ走り出す。
すでに目星はつけておいた、だから補佐に付いてくれた人員に頼んで左右に散ってもらい、攪乱するように一旦は“そこ”を離れた。
一室に飛び込み、明かりを付けずに台のようなものを引きずって出入り口を塞ぐ。それに乗って天井に手をかけ、基盤を探した。
「この、図から言えば、地下一階はすべて、電力系統は上にある筈なんだけ、ど」
ざらついた天井は手で突くと中の空洞部分に安っぽい音がくぐもった。
なかなか基盤らしき突起には当たらない。ましてや天井は一向に外れることがなかった。
どこか外れる気配がないかと徐々に焦りだしたとき、一宇は台から足を滑らせそうになって息をとめる。
ここで悲鳴をあげたり怪我をしては元も子もない。落ち着け、と何度も自身に言い聞かせ、再びゆっくりと、丁寧に指先を天上に滑らせた。
あった。
がこ、と妙な手応えがあって、菓子のフタでも取るように天上の一角が見事に外れた。
伸び上がって中に手を入れ、砂と埃の感触の他に、ネジのような金属が手に触れる。
「あとはコレを繋いで、」
自身が持つ機械とケーブルを繋ぎ、一宇は画面に集中する。
「ここから侵入できたら、言うこと無いンだけどな」
研究所の研究員が寝泊まりしていた部屋、しかもここは最上位の人間が使っていたのだと、電脳図面のVIPの文字が示していた。ここからなら随分上の機密情報まで探れる筈だ。今はまだこの辺りに電力が行き渡らないために地下警備システムが作動していない――そのうちに、出来ればさらに絞り込んでおきたかった。データ上のどの辺りに、目指すデータが存在するのか。
(感染者や実験のデータ、は、あった! 研究所のキーは、……まだプロテクトが生きてる、か)
凄まじい勢いで打ち出される思考実験の表を見つめ、一宇は不意に台を降りた。中空に不安定に、ケーブルだけで小型機械がぶら下がる。息を潜める。思考実験の成功を告げる機械音はまだしていない、汗が頬を伝う。知らない足音が外を行き来し、知った足音が銃を向ける。
まずいなと舌打ちしかけて一宇は床付近に身をかがめた。
人の声が通りすぎる。
一旦は遠ざかった気配に、肩の力を抜いた、瞬間、
「……ッ」
鈍い音を立てて扉の下辺が内側へ凹んだ。頭上の機械に目もくれず、彼は急いで銃を構える。先程転がした連中からひそかに奪っておいたものだが、弾は一発しか入ってはいない。さらにいえば、さすがにこの暗がりから一発で仕留める自信はなかった。
心臓の音が潮騒のように耳元に押し寄せる。部屋の埃っぽさがやけに鼻についた。
(次で、動く!)
「っとあ!」
「大佐!?」
非常用にでも置かれていたのか、鉈のようなものを振りかざした浮田=ランゼルが鉈の重みに引きずられるようにして弾道から逸れた。外れた扉が鍋でも叩いたように音を立てて床上に跳ねる。
「あっぶねェなお前、俺を殺す気か」
「だ、だだだだだ、だって」
鉈の動きによって左足を軸にぐるりと回ったランゼルは、そのまま入口へ向かってきた男の首を廊下へはねた。
「それで、目的のものはあったか?」
血しぶきを避けるために中に入り、大佐はゆっくりと天井を見上げる。
「あー、その調子じゃあまだみたいだな」
一宇は、廊下から大佐の足下を通ってこちらへと流れ来る血の海に気を取られている。
誤って舌を噛んだときのような鉄錆びた匂い。
急激に吐き気に気が付いた。これまで無視してきたはずの様々な匂いが、不意に喉元までせり上がる。埋め尽くす。埃と黴と血と腐臭。
ここは腐臭に満ちている。
ここには生きた気配がない。
何故なら既に死に絶えているから。
ここには誰も生きていない。
「どうした一宇。俺が怖いか?」
まるでたった今降り立った聖者のように、子供に対するように、穏やかに声が言う。
異様なほどの暖かみに、うれしさを通り越して寒気がした。
「怖いなら目をつぶってろ、自分自身のスイッチのコントロール方法を覚えろ。戦う最中に実際に目をつぶったら死ぬけどな、お前の場合は片目を閉じてればそれが引き金になるだろう?」
「そんな、言い聞かせるみたいに言われなくても」
出来る。
一宇は膝をついて立ち上がる。肘を床につけて的への狙いをずらさないように構えていたが、もはや必要のないことだった。
左目を隠して無感動にケーブルを引きちぎる少年に、ランゼルは困ったような笑みを浮かべた。
「……子供だな。おっと、そう睨むな。弾が切れてるだろ、これ使え」
何でもないことのように接され、一宇は自分自身の弱さに、未熟さに、……吐き気がした。
*
耳に甲高く聞こえる足音をやり過ごし、二人はなるべく壁際に立ってドアを目指す。
それは意外にも地下一階に入ってすぐ、倉庫と記されたプレートの奥に存在していた。
「昔ッから掃除には箒とかモップなんだなぁ」
「大佐ってすごいですよねぇ」
かすかに呟かれた声と共に、一宇は感嘆したような調子で言った。
「ものすごく緊迫感があったり、なかったり」
「黙れ早く開けろ」
横暴な発言に腹を立てることもなく、一宇は冷静にロックを解除した。大佐らのいい加減さは、マイナスの意味でのものとは違う――おそらく事態への対処が早いのだ。それが他人をどれだけ苛立たせようと、彼らは意にも介さない。
仕事は仕事、やるだけである。気を張らなくて済む一瞬を見逃さずにそこで休み、再び戦う英気を養う。
「……褒めてるんですよ」
暗闇の中に、ガラス越しに廊下からの光が差し込む。倉庫の中はますます埃臭く、ともすればくしゃみがとまらなくなりそうだ。
「あァ?」
背後にある倉庫出入り口を睨んでいた大佐は、理解できなかったらしく片眉をひそめた。
首を振って、一宇は道具入れの奥から顔を出した。
「行きます」
「来たぞ!」
ルノーの叫びに、九条が応じる。上空へまるで燕のように現れた戦闘機が、しなやかに羽を振って敵機を落とす。
憂乃は、はるか後方へと黒煙を吐きながら去っていく数機の戦闘機らを睨み付けた。
「……下手くそめ、何故海軍なんぞがあんな最新鋭機を使っているんだ。私ならそれ一機で、あんなヤツぐらい落とせるぞ」
『大尉、丸聞こえです、そして俺多分互角だと思います』
地上に無造作に置かれた無線機から、九条がぼそりと言い返した。
撤退者を狙う不届き者をライフルで追い払いながら、憂乃はむっと顔をしかめた。
「うるさいな、私があの機体に乗ったら、と言っただろう。同じ機体だったら互角がせいぜいだ――お前みたいに飛行機愛だけで空を飛んでる奴らと一緒にするな」
『それって褒めてるんですか? うわー嬉しいな、今度奢りますよ』
憂乃は苦虫をかみつぶしたときそれが存外に甘かったといった表情になる。
「てめえら頭がついてるンなら体で動け!」
広報担当の第十二部隊から借りた(正しくは奪った)無線機を用い、第七部隊大佐ルノー=モトベが指示を出す。意味をなさない言葉だったが、ここに上官と呼べる存在が意気揚々と叫んでいることに浮き足だった連中はまるで気にはしなかった。
「大佐、」
「何だァ!?」
シーン情報局員がいつになく慌てて、第十二部隊の張った小型テントから駆けだしてくる。
「大佐、付近に高エネルギー反応があります」
「……何だそりゃ」
「地下にあるのは研究所かもしれませんが、もとは要塞かもしれません、まだ動いている」
「動いてる?」
「つまり」
シーンは、全員退避を進言した。
「このままでは、攻撃装置が作動します」
「攻撃? 地下研究所は研究所じゃないのか?」
「防御機能は常に受動的とは限りません、攻撃型もある」
指定された敷地内に侵入者があれば砲撃を仕掛けるような、門扉を閉ざすものではなく反対に敵をたたきのめすような防衛行動。
「先程、自棄を起こしたレジスタンス連中や撃墜されたものらの機体が墜落炎上しました、それはこの研究所の防御機能を呼び起こすには多すぎた」
「……つまり、ナニか、研究所のシステムは地下に埋まってるが、地上に向けての攻撃要塞も搭載してるからそいつがおはよーさん、と」
片耳に水が入ったように頭を手のひらで数度叩いたルノーが、ゆっくりと首を巡らせる。
「やばいなそりゃあ」
無言でシーンが指示を待った。
「何を気楽な会話をしてるんだ?」
憂乃が、退避する者たちを束ねて後ろへ逃がす途中で問う。ついでのようにバードが、立ち止まって首を傾げた。
「なんかさー、さっきから深刻そうな話が聞こえたんだけど。地下、火薬あるのか?」
「火薬?」
憂乃は上官らの話を聞いていなかったらしく、足下を真剣な眼差しで見つめた。
「いえ、昔から使われてきた火薬でも、爆薬でも、液体火薬でも、なくて」
シーンは急に歯切れが悪くなる。
「何だよ」
バードが右のつま先を地面にうちつける。
ルノーは明後日のほうを向き、すれ違いかけた者の首根っこを捕まえた。
「おい浮田=ランゼルは」
「へ!? いえ、まだですが」
捕獲された者は第十二部隊の腕章をくわえてはいたが、第二十五部隊であるらしい。必死な顔つきでまくし立てた。
「ですが俺たち、すでにリミットきてるンですよ! あと十五秒しかここにいられないんです」
「何でだ」
そういえば、先程までそこここに居た軍人の数が減っている。捕まった者は地団駄を踏みながら泣きそうな顔で答えた。
「いつも、俺たちは時間制限を設けるんです、生きて帰るためにも必要ですから。だらだら残るより移動した方が安全なときがあるんですよ、それで今回も、時間ごとに区切って、俺たちは退避とかしないとならないんです」
「上官見捨ててもか」
「仲間が死んでも、です。誰か一人のためには戻らないンです、七とかと違って、それが二十五部隊ですから」
手をゆるめると、即座に彼は森に紛れた。焦土と化した辺りといえども、森はまだまだ黒くそびえる。
視認できなくなった姿を諦めて、ルノーは再びシーンを見やった。
「まだ言わねぇのか」
「……電磁波です」
「は?」
一瞬、喧噪が遠のいた。
「エネルギーを用いて強力な磁場と電磁波を発生させます。かつて研究所は地上にあり、森もなかった、それでは一見狙われ放題のように見えますが、しかし、周囲に電磁波の影響を殺す何らかの物質層を用い、その周りに通常の数十から数百倍、いえ数万倍を越える周波数などを用いて電磁波の層と磁場層を形成します。詳しいことは省きますが、電磁波だけでも放射線を浴びるのと同じくらい危険な量です、それ以外のものも用いて、研究所には砲弾さえ届かなかったそうです」
「伝聞体だな、誰から聞いたのさ」
誰も問わないのを見てバードが渋々口を開く。しかし足は既に逃亡の体勢を整え、首だけがシーンを向いていた。
「……マザー」
「母親?」
呟いたルノーをバカにしきった目で見上げ、バードがそこから駆けだした。
「決まってンだろ、マザーコンピュータMだ!」
もし、ここで、研究所の警備システムが、シーンの告げたとおり動けば。
電磁波は、電波や光、X線などのことであり、本来、さほど恐れるような対象ではない。マイクロ波や紫外線であり、ときに無線やレーダーなどにも用いられており、ごく身近にあるものである。
しかしそれゆえに、同時に、放送、通信への妨害や電子機器への干渉、異常動作をも引き起こす兵器ともなる。X線やガンマなどは周波数が高く、大量に浴びれば遺伝子が傷つく――放射線も電磁波である。
「待てバード!」
呼び止めるが聞かないと見て憂乃が牽制に銃を向ける。
「磁場が狂ったらお家に帰れねーじゃねェか!」
バードはこちらを一瞥もせずに、ひたすら撤退を続けていた。
「お前は本当にトリか」
突っ込んで、憂乃はさっさと銃口を降ろす。
「で、どうするんだ我々は?」
ここにはまだ、守るべき味方が居る。
しかしこのままでは全滅する。
「時間はないのか?」
ルノーは難しい顔をしようとしてうまくいかなかったらしくすぐに普段通りに戻った。
「ありません。もってあと一時間です。それが限度、早まることはあっても、時間が伸びることはないです」
いささか緊張感の欠けた表情で、ルノー=モトベは首を巡らす。
「……決めた」
疲れ果てた者どもが、うろんげに目をあげた。
泥と火炎と血にさいなまれ、およそ快適とは言えない状況で神経はすり減らされる。
皆、思わない者はないだろう、
撤退、という二文字を。
「一度ランゼルに連絡を取れ、シーン、お前に任せる。それと、気概のあるヤツは残れ! それ以外は一時前線付近まで撤退しろ!」
張り上げられた声に、憂乃は奥歯を噛みしめる。
どうするか、と問う声で、内心はまるで嵐のようだ。
無言で駆けだし、群れの中の人間から第二十五部隊の人間を捜した。
通り過ぎる者の手を取り、捕まえる。
「地下へ降りる道はどこだ」
「降りられませんよ!」
片目をひどくしかめながら、相手は絞り出すように声をあげた。左耳にがさつに巻かれた包帯からは血が滲み、肩をかしているもう一人の者はすでに引きずられているのがやっとである。
「レジスタンス側が……ッ! 出入り口を」
「それで戻ってきたのか!?」
「時間ですから!」
また『時間』だ。
舌打ちし、彼らが来た方向へ駆けだした。
「あッちょっと! 駄目ですよ!!」
声は見る間に遠ざかる。
「死んでも、良いんですか!?」
だって、会いたいもの。
「……ッ、」
風の直撃で涙が出た。
見捨てて逃げるくらいなら、ぎりぎりまで側に居たかった。
「っがはッ!」
唐突に後ろから蹴られ、憂乃はその場に転倒する。
「すいません」
「きさ、ま」
先程の男が、仲間を他の者に預けたのか捨てたのか、憂乃を追って近づいていた。
「すいません浮田大尉、しかし自分は、一応、とめるよう指示を受けているので」
「誰からだ」
蹴るときにツボを狙ったのだろう、憂乃は手足が動かせない。噛みつくように睨まれて、男は短く謝罪した。
担がれ、しばらく移動して森を出る。
「大丈夫でしたか大尉ー!」
すでに森を出て前線までの撤退路を示すために立っていた第七部隊の人間が、気付いて声を張り上げる。
それに憂乃を託すと、その男は再び森へ戻った。
「……バカっ」
地下研究所への入口付近を守っていたその男は、ランゼルらが地下に入ってからは指定した人物を中に決して入れないように、と命じられていたのだと教えてくれた。
それはすべての第二十五部隊隊員に通達されていたことだった。
ルノーや優秀な士官らの名と共に、憂乃の名前もあげられていた。おそらくランゼルが残しておかねば以降の軍務に支障を来たすと判じたが故のメンバーだろう。
それから、と男は何故か照れながら言った。
――佐倉一宇候補生が、ちゃんと地下へ道を開いて。必ず戻る、と。
(バカな男だ)
――帰ってから、大尉に、自分も役に立つのだと自慢する、と。
言っていたのだと、言われて。
悔しくて、涙がとまらなかった。
側にいられないことと、彼に、何も伝えていなかったことが、何故か叫びたいほど痛かった。
倉庫の内部、掃除用具入れの奥にあった壁を抜けると、そこには磨き抜かれた廊下が広がっていた。目に痛いほどの白さによって、一宇がよろけて壁に手をつく。
「な、何ですかここ」
「知らん。俺に訊くな」
ランゼルは先程から機嫌が悪い。時計を見てため息をつき、半眼のまま先を急いだ。
「仕方ないとはいえ、一宇」
数名の味方が、ランゼルに呼ばれて辿り着く。それらに短い指示を与え、彼は大きなため息をついた。
「制限時間を守れなかったのはイタイぞ」
「え、過ぎてますか!?」
一宇は数メートルごとに仕掛けられたセンサーから指示される暗号文に苦戦している。
青ざめて振り返り、おかげで一度、ミスをした。倉庫からここへ入って以降は、思考実験のミスは三度に限られている、さすがに容易には破られたくはないのだろう。
冷や汗をぬぐい、一宇は落ち着いて、パスをくぐる。
それを見つめ、ランゼルはかすかに肩をすくめた。
「……まだ、だけどな。第二十五部隊撤退時間はとうに過ぎた」
「すいません」
こうなったら一刻も早く、と考え、同時に、焦れば元も子もないと言い聞かせながら、一宇は一旦手を離す。
モバイルを脇に抱え、息を整えて、
「行きます」
ロックが開いた。
音もなくするするとあがる白いプレートを見上げながら、ランゼルは先程の続きを述べた。
「想定どおりにいかなかったから仕方ないとは言えるがな。お前の動きは、予定より三時間も早かった」
「そうなんですか?」
ランゼルは苦笑し、目を丸くして振り返ろうとする一宇の頭を前に押しやる。
「お前は実によくやってるよ」
「……なんか、気味が悪い」
「何でだよ」
一宇は次のロックを解除し始め、画面を見つめたままで言葉を返した。
「だって大佐、褒めるときは茶化すじゃないですか。俺の方が天才とか」
「事実だろう?」
ぬけぬけと言い放たれ、一宇は軽く眩暈を覚える。
「まぁそうですけどね、そうでしょうけどね」
ロックが解除され、先に味方が歩を進める。
時間はない、それでも、まだ残っている者たちが居る。第二十五部隊では指定時間が過ぎれば撤退が義務づけられ、残っているのは既に自主的判断によってそれを選んだ者ばかりである。その数がわずかとしても、安堵できるほどありがたかった。
ふと一宇は、自分に続く者がないことに気が付く。
「あれ、大佐? 開きまし……たよ!?」
「バカ! 行け!!」
振り返ろうとした途端後ろ頭を突き飛ばすように掴まれ、一宇は派手に吹っ飛んだ。
とっさに受け身が取れたのは、士官学校で体術の点数が良かったというおかげである。あまりの速さに何も見えなく、一宇は倒れて初めて、ランゼルが彼を突き飛ばしてくれたと気がついた。
「大佐後ろ!」
無言で銃を撃つと、ランゼルは小さく舌打ちする。とっさのことに、サイレンサーの使用を忘れていた。
「気付かれるぞ、急げ!」
一宇を立たせ、彼は言う。
「……もし無理なら、今あるデータだけでも離脱させろ」
「……どういうことですか」
「どういうもこういうも!」
駆けだして、ランゼルは隠し持っていた爆薬を後ろに放った。
「こういうことだ、よ!」
「うわああっ!?」
後方で、悲鳴があがった。
つまり、
「もう来てるんですか!?」
敵が背後に迫っている。
「くそっ、お前先に行け」
爆発の規模は思ったより小さい。十数名足音がすると見て投げた小型爆弾は確かにそれらを粉砕したが、それでも、却って多くの敵を招きかねない以上、賢い選択とは言えなかった。しかし他に武器もないため、ランゼルは最後の手段としてそこに止まる。
無言で、一宇は先へ駆けた。
追いついてきた敵は既に弾薬など持っていないらしい、重なり合うのは怒号と金属音ばかりだ。
幸いなのは味方のうちに、嘆きの声が漏れないことだけ。
歯を食いしばり、一宇はロックを解除する。
最後の扉は唐突だった。
突然開けた視界の中に、もはや巨大な電板を重ねたような塊しか見いだせず、一宇は一瞬戸惑った。
しかし慌てて振り返り、視認できる位置まで来ている大佐と敵の様子を頭に入れた。
「第七区閉鎖、は、これか!」
動作用のキーコードを打ち込むと、先程あげてきたシェルターのようなものが紙切れ一枚を落とすようにしまった。
「っぶねー……」
靴のつま先を危うく食われかけ、ランゼルが座り込んでため息をつく。
「おい一宇! これで後、どうやって出るつもりだよ」
「あ、」
距離があるため、自然と声が大きくなる。一宇は一瞬詰まった後、気楽にも聞こえる口調で言った。
「何とかなるんじゃないですか?」
「……それもいいけどな」
帰りの心配を後回しに、彼らは、電算機械を見上げた。
「どうやっていじる気だ?」
ふと、内耳にねじ込むように、胃をひねるような金属音がとどろいだ。
「どうでも良いからさっさとしろ!」
「了解しました!」
返事を聞いて立ち上がり、ランゼルは遅い動作で銃を構える。
閉じられた壁から距離を取りつつ、微振動を伝えるそれを睨んだ。
「……旧世界の遺物が、ザマぁないな」
焦りの滲む声で唇をなめ、彼はただ次に備える。
一宇はモバイルを置き、それにデータ侵入を任せた。その間にもっと有効な直接の出入力端子を探して駆けたが、相手の巨大さにはなすすべもない。
「何っでこんなに、無駄にバカでかいんだろう」
古い機器はたいした処理機能がないわりに物質的な容量を多く食い過ぎる面がある。しかし見たところこの黒と金銀と緑の色で出来た岩肌のような機器は、ただ大きいだけで、持っている器官そのものはそれぞれがそう非効率的なものではなかった。
「どれだけの情報を処理してたんだろう」
これだけ大きければ消費されかつ発生する熱量も凄まじいものになるだろう。
冷却システムもそう完備されていると見えず、首を傾げながら一宇は抜けるような天井を仰いだ。
「礼拝堂みたいだな……」
というより、血管の代わりに電気コードや配管の類が這う胎内のようだ。
中心部にあるシステムはさしづめ胎児といったところか。
この本体らしきものに侵入を試みていたモバイルが、危険信号の合図を出した。
入口付近の床に置いていたそれに駆け寄り、一宇はラファエルらが組んでくれた自動制御プログラムだけでは突破できないと知らされる。
「機械にまかせてられるんだったら、今のうちに構造、見ておきたかったんだけど」
料理するにもまず相手の特性を理解することから始めなければ話にならない。
舌打ちをこらえ、一宇は、途中からポケットに突っ込んだままだった通信機器を取り出した。
「本体に到着しました! 指示を仰ぎます、内田さん、聞こえますか」
それは、今回の『味方』への直通回線。
『……、いや、彼は負傷して戻れない』
「ランちゃんさん! 違ったすいませんごめんなさい」
大佐が常々ちゃんづけで呼ぶので、妙な覚えかたをしていた。一宇は必死で、目の前の機械への侵入路を考えながら謝罪の言葉を口にした。
『いや……』
そこで一旦沈黙を返し、喉に呼吸音をかすらせて、第二十五部隊所属ラファエル情報局局員が言葉を発した。
『申し訳ないが、こっちも対処できるか分からない、力になれるかどうか――痛み止めの所為で頭が正常に回らない』
「負傷……ですか、」
痛み止めを服用しているということは、怪我の痛みに耐えられないからか、もしくは、薬で朦朧としてでもそのほうがマシだと判断されたためである。純粋な戦闘要員とは違って情報処理の管轄者は、まず第一に正常な頭脳労働をこなせなければ意味がない。
「内田さんも、」
『彼は粘りすぎた、撃たれてからひとところに残って、滞らないよう周りに情報を与えていたから』
「誰か他に、」
一宇はそれ以上の追求を避けて問いを発し、作業の方に集中する。ラファエルは普段より格段に長いタイムラグを経てから、ややずれた答えを返した。
『内田局員から渡されたプログラムは使えないか』
「一度ミスしました、ここに入るとき許された思考実験上のミスが三回、一度は辿り着く前にやってしまったので、もう残りの猶予がありません」
『……一度、左目のデータを入力して』
しばし思案するように間をおいて、ラファエルは咳き込んでからそう答えた。
この会話が他の局員に回されないということは、それが出来ない状況だということ。
再びわき上がる焦りの気持ちが、随分前からカラになっていた胃の、底の部分を締め付ける。
『それから、別経路の回線を開いて』
「ハイっ」
活路を見出したというよりもそうであってほしいという気持ちで、一宇は再度、――最後の侵入に挑む。
『……外部システムを内部システムだと認識させる、分かるか』
「え、もしかして機械の頭脳部分を付け足すときのやりかたですか、それが研究所外になっただけで」
『そう』
キーを打つ手が早まった。一宇は同時に、その間に一度侵入実験をできるなと思いついた。失敗すれば支障を来たすため外部と回線を繋いで相互の機関を連携させる間にはできないが、連携が終われば扱える。どのみち、最後のトライアルだ、チャンスは無駄にしたくない。
『それで中身を引き出せるか、こちらも手伝う。マザーコンピュータMはまだ不完全すぎて殆ど役に立たない、から人力でどうにかする』
どうにかするという曖昧ながらも力強い言葉をかけられ、一宇は、無言で頷いた。
そして、それの失敗の場合に向けて新たに方法を組み立て始めた。
閉じられていた壁が、融解する。
人一人が通れるほどの円形に歪んだ穴があき、大佐はすかさず自動発火の爆薬を放り込んだ。
爆音で耳が痛い。喋っていれば舌を噛みきっていたかもしれなかった。
「……っくそッ、バードのヤツ調合間違ってンじゃねえか!?」
火薬の匂いが満ちた吹き返しの風に毒づき、急いで奥の一室に向かう。
「一宇! まだか!?」
もはや防ぎきることはしない、あるだけの物を持って、逃げるだけだ。
生き延びた味方が巨大なシステムを包含する部屋の出入り口で銃を構える。爆風と火炎をかいくぐった敵が床に這いながらも塞がれた廊下に開いた穴を使って駆け込んでくる。それを撃ち抜き、相手の数がまるで減らないことに苛立った。
「急いでください! 大佐!」
替えの弾丸が尽きる前に撤退せねばこちらがやられる。
一宇はもう一つ、ガラス板のようなものを胸ポケットから引き抜いて横目で表面を睨んだ。
「外部に繋げたんですが、まだこっちのシステムの方が前線にある機器より上位で! 操作ができません」
「それでも良い、撤退するぞ!」
益のない戦いになるとしても、負け犬と罵られても、そのほうが良い。死んでも生き延びても結果が変わらないのならば捨てる必要のない命である。ランゼルの叫びに呼応するように、マシンの奥でひずむ音が聞こえた。
「な……んだ!?」
「回線の逆侵入です、そのために一旦全体を起動させました、もう間に合わないなら、最後に侵入実験に今から五秒下さい!」
「五!?」
遠い昔、貴方はどこから来たの?
「マザーコンピュータMの制作者はネフェスとされています、しかしそれは基本チーム名でした」
ガラス板に映し出された解析データが、まるで人には理解できない言語を打ち出していく。
早口で告げ、一宇はこの操作の実行を指示した。
「エルンスト、それが貴方の、」
主人だ。
――内田から一度聞いていた、マザーコンピュータMの制作者の名前を打ち込むと、最高権限のキーコードがモバイルに差し込んでいたディスクに流れ込んだ。
「データ、抜きました!」
叫んだ瞬間、再びマシンが大きく揺らぎ、上部から黒煙を吐き出した。
「でかした! 行くぞッ」
「はいッ」
応え、一宇も急いでシステムを封鎖する。画面上にオレンジ色の数字がいくつか並んだ。それを確認し、冷却システムがまともに作動しない眼前の頭脳部をどうにか制御して操作権限を軍部に移すことをインプットする。直後に、外部操作できないようにキーを入れ直した。
システム使用者としての権限を示すデータを入れた小さなディスクを自分の持つ軍の許可証のタグに引っかけて接着する。これで研究所のデータはすべて最上位権限のキーによって動かすことが出来るようになる。
すでに駆けだしていた大佐と味方数名を追いかけて、一宇はモバイルを床の上からかっさらった。
「そっちじゃ駄目です! 内部から抜けられます!」
いざというときのために小型回路を持っていて良かったなと、一宇はくわえているガラス板に感謝した。出来ることが限られてはいるが情報の操作と処理時間が短くて良い。これのおかげでいくらか早く処理が出来た。
「抜け道があるか!?」
「左です! 行きます!」
徐々に稼働し始めた頭脳が、ようやく一宇の使った封鎖コードを読み込んだのか黙り始めた。航空機の墜落音に似た重音が轟き、うごめくような壁に手を触れた一宇はたたらを踏む。
先程大佐が使った爆薬の第二波が来た。
「二段仕掛けにしやがってあの野郎!」
大佐は予測外の事態に舌打ちした。
爆風によって飛ばされてきた敵がすかさず体勢を立て直して発砲する。
「ッくそ! どこからそんなに弾が出て来るンだよッ」
ランゼルはとっさに掴んだナイフを投げた。頸動脈からあふれ出る鮮烈な赤が床を濡らす。
「開きました!」
部屋の奥、おそらく研究者らが開発段階から緊急路として確保していたであろう階段が忽然と姿を現わした。一人が先見として最前線を行き、一人が入口を守るようにして攻撃を始める。
もう一人の軍人を先に行かせ、大佐が、――気付いた。
「死ねええ!」
ありったけの爆薬を抱え、さらにサブマシンガンを手に男がつっこんできた。
「くそっ!」
「大佐!」
離脱間近で起きた行動に、背を向けていたぶんだけこちらが不利になった。
「行け!」
大佐が一宇の背を突き飛ばし壁穴に押し込む。
否を唱える余裕はない、とにかく、地下研究所母体の権利、この地を手に入れる証ともいえるキーは、現在一宇の手の中にある。これを持つ限り、彼は誰よりも先に抜け出して、仲間のもとに帰り着かなければならない。
「大佐ッ、くそおお……っ」
銃撃の合間に大佐の声が聞こえてきて、まだ彼の生存を知らせてくれる。
一宇は密閉空間から出て、ひたすら廊下を駆けはじめた。もたついた足で、どうにか階段をのぼりつめ、曲がり角にいた伏兵の顔に肘を叩き込んで先へと進む。
「は、っ」
息が切れる。壁に手をつきながら、一宇は鈍く点滅する電球を睨み付けた。
まだ外には出られない。心なしか空気がほこりっぽく、喉が悲鳴を上げていた。
「く」
靴底がリノリウムの上に鳴った。切れた息をできるだけ響かせないように心がけても、爆発しそうな心臓がどうしても意識を奪う。
だから軍人には向かないのだと呆れたような叔父の声が耳元でしたような錯覚がして、一宇は自然、額の汗をぬぐった。
「こっちへ!」
角のところで待っていてくれた先見の一人が、頬にこびりついた土に血を上掛けながら声を荒げた。
「早く!」
もはや頷くことも出来ない。足が滑る、おそらく後ろには点々と誰かの血による足跡のオブジェができあがっている。
「何やってンだこの野郎!」
突然脇からすくい上げるようにして手が伸びた。
悲鳴を殺して振り返った一宇は、すぐ隣を走っている大佐が血塗れた前髪の隙間から後方を睨んでいると気がついた。
追いつかれた、いつから自分の速度は落ちていた?
「走れ!!」
光が見えない。
電源盤は付近にないのにもかかわらずブレーカーの落ちる明晰な音が耳に届いた。
面食らって銃声が止む。
一宇は力強く背を押され、再び歩くようだった速度を上げていく。
それとは対照的に、大佐の速度がやや落ちる。
「大佐?」
「良いから走れ!」
荒い息づかいが近づき、先程先見を果たした者が先へ行きますと断って駆けた。
非常灯がつく。
「行けえええええ!」
外は、赤土に舞う蝶の群れ。
「そのまま直進して西へ曲がれ!」
かすれた声が無理矢理に怒鳴る。
闇に塗りつぶされた森から、一気に耳に流れ込む虫の音。
恐ろしいほどの青さを誇り、舞う、蝶、華、葉、
「行け!」
隣を走っていたはずの男が居ない。
息苦しいほどの密度が周囲を、感覚を埋め尽くす。
塗りつぶされる。
むしろ砂が恋しかった、これほどの緑、生き物の胎内に飲み込まれたような錯覚を覚える。
ついてきていたはずの足音が止んだ。それでも足は止まることを知らない。
「っあ」
呼吸が妙にひきつれた。
大佐の、あれは、返り血だった?
「た、いさ……!?」
森を出る直前に足を引きずって振り返る。後ろにはただ点々と闇の中。
闇の、
「大佐!?」
「走れっつってんのが聞こえねえのか!」
高い銃声。
沈黙、鼓動が周囲の音ととけあう。
砕ける、
意思が、
「……大佐!」
一宇は思わず駆け戻った。
距離にしてほんの数メートル先に。
浮田=ランゼルが居た。ンゼルが居た。
「バカ、早くしろッ」
声が、中途で咳に飲まれた。
星々が明るさに飲まれゆく空、始まる浸食、
克明になるその姿。
「大佐、どこを撃たれました!?」
右足の怪我には先程から気付いていた。一宇が先に行かされたとき、確実に一発受けている。
まるでベルセルクだ、傷を負ってなお猛る狂戦士。
「行けっつってんだろ」
「他の人は、」
「知るか」
吐き捨てる――というよりは既にそれ以外に喋る勢いがつく方法が見つからないらしい。
一宇は唇を引き結び、ランゼルの肩の下に腕を入れた。
「……何やって」
「運びます」
「はァ!?」
意識のない者よりは、運びやすい。一宇は出来るだけ前を向き、先に見える砂漠へ踏み出す。
「何言ってんだか……」
弱い声が頬をかすめる。足下で、あがってすぐに降り始めた雨のように水を叩く音が聞こえる。雨上がりの道をタイヤが行くような、水濡れた音。
どこまでも広がる黄褐色の大地。そこを埋め尽くそうと侵食する森、その上には天の濃紺を射抜く星々。
(ここはどこだ)
吐く息が白い。そんなことで、今の季節が冬であることを思い出す。
足下に、もう慣れた砂の感触。ときどき引きずり込む自己意思があるようにして砂が欠けた。
目の前に続く砂は砂漠らしくなく硬い大地を見せている。しかしそこから唐突に風で崩れる稜線が出現し、うまくしないと蟻地獄を見分けられなかった蟻のように足場を失うことになる。
「てめえが帰らないと意味がないんだよ」
しばらくの間無言だった男が、一宇の肩越しに呟きをもらした。
それから数メートルも行かないうちに、一宇が重みに負けて砂に転んだ。
「いやです」
言いながら一宇はかすかに顔をしかめる。大地に突いた膝が鈍く痛んだ。
(置いて、行こうか)
何度そう思っただろう。それでも擦り切れた心に鞭打って、一宇は首を振り、なおも大佐に指をかけた。
「一宇、行け」
ランゼルは立ち上がることなくただ指示した。
今にも降りそうな星の下で、大佐としての言葉を発した。
「これは命令だ。行け一宇。帰るんだ」
聞き分けのない飼い犬に言うように、厳しさを込めて彼は吐く。しかし中途で粘ついた咳に遮られた。
血が止まらない。今はまだ胸元の傷は右手で押さえつけているため、辛うじて出血の勢いがおさえられている。それでもこれまで流れた血液量は素人目にも甚だしい。砂は血で塊になり、森へと足跡のように続いていた。
(まだ、これだけしか進んでない)
一宇はその事実に愕然とした。大佐に近づいたときに突いた手が、赤く染まった砂が既に乾き始めているのを捉える。砂漠では砂に吸い込まれていくために分かりにくいが、本来なら血だまりができていることだろう――これはもう、長くはない。
(違う)
一宇は否定し、奥歯を噛みしめて相手を助け起こそうとする。
「……一宇」
着慣れたジャケット越しにもそうと分かる銃創をおさえ、大佐は荒い息を吐き出した。
「行けよ、あいつらが待ってんだよ」
無言で首を振り、一宇は自分一人ではもう引き起こせないでいる相手の側に跪いた。
「そんな、こと……っ、言わないで、下さい」
そんな悲しい言葉を聞くために、貴方を助けたいわけじゃない。
この状況のすべてを見かね、ランゼルは視線を泳がせた。時間がないしな、と呟き、うわごとのように何か言う。それらはくぐもり、判然としなかったが、すぐに何を考えていたのかは行動で示された。
ドッグタグを引きちぎるようにして、ランゼルが一宇にさし渡した。
「……これは、必ず、マリアンか、娘、に渡してく、れ……、お前には、クロスやったからな……」
形見分けには充分すぎるだろう、と片頬で笑い、彼は急にごぼごぼとした苦しげな咳をした。
「あぁ、ほら見てみろよ……お前なら分かるだろ」
ひとしきり咳き込んだためか、言葉がしばらく明晰に出た。傷口から手を離し、ランゼルは手のひらを中空に掲げる。
「これはもう、助かりようが」
「大佐!」
黙らせ、一宇はドッグタグを持ち主の方へ押し戻した。刻まれた文字に血がこびりつき、ランゼルの所属などを示す記号が白みゆく空のもとに浮かび上がる。
「何だ、預かってくれないのか」
「違います。ご自分で渡してください」
「……一宇」
ランゼルが力の抜けきった声になり、一宇は目を固く閉じた。
「だめです、俺はそんなことはできないです」
一宇自身、自分の言葉が無意味であると分かっていた。これは頑是無い反応でしかないのだと。
だからこそすべて投げやって逃げてしまいたくなる。逃げてどうなるということもないのに、それは甘美に、思考にまとわりついた。
「一宇、頼むよ」
途方に暮れた声が言う。もはや命令もできないのかと、一宇は泣きたい思いをこらえた。
「全員、無事に帰るんです。少佐だって九条先輩だって内田さんだってラファエルさんだって……みんな、帰りを待ってるんです」
砂が徐々に、寝転がる者を押し隠すようにして流れ始める。
ランゼルは不意に、力の限り、一宇にタグを押しつけた。
「行けよ、……何やってんだよ」
吐く息が弱々しい。血塗れた頬に手を触れて、一宇は幼い子どもがするように首を左右に振って拒否した。
「一宇」
「い、嫌です……」
「俺だって死にたかない」
息が浅い。
焦点が合わなくなる目が、最後の願いを突きつける。
「頼む、これ以上……俺に泣き言を言わせないでくれ」
真摯な眼差しでそう言われ、一宇は、全力でその場から逃げ出した。
涙で視界が滲んでいたが、転ばないで、全力で走った。
鼻の奥も肺の奥もひどく痛んだ。刺すような刺激で脳がとめられたような気がする。それでも走る機械のように、それだけを目的として、一宇はひたすら足を動かし続けていた。
前線基地へ、戻るために。
「約束、守れなかったな」
呟き、彼は天を仰ぐ。
せめて楽な体勢を取って血を気管に入れないようにすれば良いが、それより、空を見たかった。
佐倉少佐とは違い、ランゼルには空へのあれほどの憧憬はない。ただ今は、この空の先に居る、誰かのことを思いたかった。
それだけだ。
「何だ、意外と静かだな」
首を巡らせようとすると、貧血のために目がくらんだ。おそらく、全員死んだものと見なされて追っ手がかからないのだろう――もしくは向こうの手駒が切れた。
この分だと一宇は無事に戻れそうだ……。
星空が朝日に食い破られる予感がする、それを見上げ、ランゼルは傷口から手を離した。その温もりだけが体を温め、しかしそれは表層のみでしかない。
「……寒いな」
身震いして、もはや痛みのない状態に薄ら笑う。
穏やかだ。
あまりに静かすぎて怖くなる。
寒い、
何を考えているのか分からない。
「帰り、たかった……」
さいごに思い浮かべるのは、一体誰の顔だろう。
「寒いな……」
砂が、いつかすべてを覆い隠す。どのくらいの間、走り続けていたことだろうか。
曙光を受けて、気が晴れるわけもなく。見えてきた基地に突進していった。
「必ず、かえ、る、から……ッ」
転ぶ、けれどすぐに両腕をついて起きあがる。
天は高く澄み渡り、明けゆく色が徐々に青さに吸われていく。
希望を期待させる空。
誰も救いはしない空。
「誰が、死んで、も、……っ」
足が重い、
体が鉛のように沈む。
軽い色の黄砂たちが、嘲笑うかのように辺りを囲む。この砂のどこかに大佐が居る。どこかにはレジスタンスが屍を並べ、またある場所では子供たちが目を覚ます。平穏無事であることを祈り、ある者は復讐を誓って起きあがる。
この世界には希望がない。
しかし、何もかもを諦めてしまうには早すぎる。
何もかもを奪われるこの大地では、生きることだけが存在証明だから。
どんな絶望も越えていこう、この世界で生き延びて、そうして、成すべきだと思ったことをなす。
思い残しのないように。
後悔を、しないように。取り返しが付かなくなる前に。
手が、届かなくなるその前に。
自分自身のためだけに、誰かを愛し、誰かを守り、慈しんで、生きていくから。
たとえどんな犠牲を払おうとも、悔しさを抱えても、絶望しても、希望が無くても、
……それでも私は、この地に生きる。